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農園

 チェリーちゃんは今、街を離れ田舎の農道をあてもなく泳いでいます。

 比較的浅い海域で太陽の光が降り注いでいます。

 日が昇って間もない時間帯で爽やかな朝なのに、チェリーちゃんの表情はどことなく沈んで見えます。


 チェリーちゃんにはチェリーちゃんの理屈があったとは言え、困惑するユキさんを置き去りにするように旅立ってしまいました。

 それが尾を引いているのでしょうか。

 強引に連れ出してしまえばよかったのにと思わなくもないし、私もそうするのかと思っていましたが……

 いけません。

 なんだか最近、クラゲに感情移入しすぎている気がします……


 チェリーちゃんが漂っていると、小さな赤い実がびっしりと茂る光景が見えてきました。

 ここはトマト農園でしょうか。プリッとした大きなトマトが実っています。海底にもトマトってできるんですね。

 チェリーちゃんはおもむろに畑の中に侵入していきます。

 お腹がすいているんでしょうか。



「誰だ、勝手に入るんじゃない!」



 わっ、びっくりした。突然、大きな声が響きました。チェリーちゃんが振り向くと、そこには甲羅が苔むした大きな亀のおじいさんがいた。その顔には年季と哀愁が漂っています。そういえば不法侵入でした。怒られるのも当然ですね。……ああ、やっぱり毒されているのかしら……



「にゅわ?」


「クラゲの子供か……この辺では見ない顔だな。迷子か?」



 おじいさんの眉が下がります。最初は威圧的に見えましたが、どこか疲れた様子です。 チェリーちゃんは相変わらず子供の振りをしてじっとしています。



「ふん、腹でもすかせたか。……こっちへこい。トマトしかないが好きなだけやろう」



 そう言いながら、おじいさんは甲羅を岩に預けて腰を下ろしました。

 チェリーちゃんはおじいさんに渡されたトマトにかじりついています。ああ、あんなにお口の周りを真っ赤にして……実にあざとい演技ですね。


 しかしおじいさんには子供にしか見えないのか、そんなチェリーちゃんの姿を見て小さくため息をつきました。



「……お前、ご両親は、お父さんとお母さんはどうしたんじゃ」


「にゅ? にゅーにゅ」



 首(?)を横に振るチェリーちゃんのジェスチャーが返ってきて、おじいさんはもう一つため息をつきます。



「そうか……親なしか。大変じゃな」


「にゅわ? にゅーにゅ」



 おじいさんは再度首を横に振るチェリーちゃんを見て、今度はため息ではなく目を丸くしました。

 まぁ、大変じゃないというのは真実でしょうね。



「はっはっは! 大変じゃない……か。親がなくとも子は育つと言うが……そうか。大したもんじゃ……」


「にゅーわ」


「こうして食い物にもありつけておるわけじゃしな……そうか、お前さんは自由なんじゃな。自分で望んだことではないかもしれんが、自由を受け入れておるというわけじゃ」



 おじいさんは感心したように喋っていますが、多分チェリーちゃんが自分で望んだことだと思います……



「自由か……そうか。思えば出て行った息子も自由を欲しておったのじゃろうなぁ」


「にゅ」


「おお、すまんな。子供にこんな話をしても分からんか……しかし……子供相手なら話せるな。考えたら、久しく人と喋ることはなかった。ましてや自分の話をするのは初めてじゃ。……どうじゃ、トマトの礼と思ってじじいの話に付き合わんか?」


「にゅ!」



 チェリーちゃんは元気よく触手を一本海面に向かってつきだしました。

 おじいさんのお話を聞く気満々です。

 そうですね、寂しそうなおじいさんのお話を聞くくらいしてあげましょうね。

 実年齢おじさんのトマト泥棒がバレなくてよかったです。



「ふむ。くらげは相変わらず何を言っておるのか分からんが、その様子なら大丈夫ということか」


「にゅわ」


「ありがとう。……どこから話したものか……そうじゃな、ワシは自由が……怖いんじゃ。自由……変化とも言えるか。それらが怖いからじゃろうな。自分の生活を変えることができん。考え方を変えることもできんし、必要性も感じんようになっておった……」



 おじいさんの目が遠くを見つめています。

 何か思い出しているようです。



「ワシも若い頃はそうじゃなかったな。親父といつも喧嘩していた。勿論、このトマト農園のことでじゃ……もっと効率よくトマトを栽培したほうがいい、そのためにはもっと人を雇うべきだ、新しい街に卸し先を増やすべきだ、意味のない互助会を抜けるべきだ……ことあるごとに衝突したな……親父の答えはいつも一緒じゃ。その必要はない、今までのやり方を変える必要はない。そんなことを言われ続けて納得できない日々を送っていたな……」


「にゅー」


「それでもトマト農家を辞めようとは思っておらんかったよ。ワシはワシのやり方でトマト農家をやっていくつもりじゃった。確かに家を出て一人で生活することを考えたことがなかったかというと噓になるが……そんなことは怖くて、ようできんかった。トマト農家が好きだったというのも勿論本心じゃけどな」


「にゅわ」



 チェリーちゃん、もう五つ目のトマトですよ……そろそろやめて真剣に話を聞いたらどうですか……



「結婚して、子供ができた頃かの……怖くなったんじゃ」


「にゅ?」


「嫁さんはな、大人じゃから、自分の意志でワシのもとに嫁いできたのじゃ。そりゃ迷惑をかけようなどとは思ってはおらんが、ワシを信じた責任というのもあるし、何より共同経営者みたいなもんじゃからな。どうなろうと運命共同体じゃが……息子は違う。息子は守ってやらにゃならん……立派に育ててやらにゃならん。そう考えるとな、急に怖くなったんじゃ。失敗した時のことを思うと、新しいことなど考える気も起きんようになってしもうた」



 普通はそうでしょう。頷くことの多い話です。私事になりますが、私にも家庭があります。それを犠牲に自分のやりたいことをしようなどとは思いません。生活の安定のためには多少の嫌なことにも目を瞑ります。いえ、多少どころか限界まで目を瞑ります。

 そう考えると、チェリーちゃんは本当に特殊ですね……

 尊敬……は絶対にできませんが、自分にできる生き方ではないと思います。



「にゅわ?」



 ニヤニヤしないでください。尊敬も共感もしてませんから。



「結局ワシも親父と一緒じゃった。トマト農家を継ぐと言ってくれた息子と、ことあるごとに意見が衝突して、大嫌いだったはずのあの言葉が口癖になってしもうた。今までのやり方を変える必要はない……そうして、息子は家を出て行ってしもうたんじゃ……」

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