「うーん。なるほど。この色にこれを合わせると全体の調和がとれるのね」
私は参考書と睨めっこしながら勉強を進めていた。これが思いの外楽しくて、家事をする以外は集中して勉強していた。
「お疲れ様。少し休憩したらどうかな?」
累がコーヒーとクッキーを持ってきてくれる。ちょうど疲れたタイミングだったのでありがたくいただくことにした。
累は微笑んで隣に座ると自分もコーヒーを飲みながら参考書を覗き込んだ。
「結菜すごいね。予定よりだいぶ進んでる。楽しいみたいでよかった」
「うん!累のおかげで新しい扉が開いたよ。ありがとう!」
コーヒーを一口飲むと好みのミルクと砂糖の加減に私と累が過去親密だったことを彷彿とさせた。
(コーヒーの好みを完璧に把握してるなんて。累さん私のこと大好きだったんだなあ)
暖かいコーヒーを飲みながらしみじみそう思う。
今はまだ累さんのことをルームメイトとしか見られないので複雑だが、元の関係に戻れたら、私も累に好みのコーヒーを淹れてあげられるのだろうか。
そんな日が来たらいいなと思いながら私はクッキーを齧る。
「そういえば累は仕事大丈夫?私のことでかなり時間を割いてくれていたけど」
「ああ。今はその分の仕事をこなしているところ。ごめんね、しばらく食事は弁当と出前になりそうだよ」
「じゃあやっぱり私が作って…」
「絶対にだめ!なんのための休みと思っているの?体を休めないといけないんだから結菜はきちんと大人しくしていて。ここで無理して休業が伸びたら会社に迷惑をかけてしまうよ?」
あまりに正論だったので私は頷くしかなかった。過去、仕事を辞めて専業主婦を進めてくれていたけど、私が仕事が好きだと言ったことを覚えてくれているのだろう。
(気持ちを尊重してもらっているの嬉しいな。好きなことをさせてもらえるのも嬉しいし結婚した後も仕事をさせてもらえそうなの。すごくいい)
そこでふと思った。
(イヤイヤ。条件で選ぶのはないでしょう。私が累のことを好きになってからプロポーズを受けないと。早く…元の気持ちを取り戻したいな)
今の時点で累のことは好きなのだが、それは親愛というより友愛でまだ触れ合いたいというくらいには思えなかった。
「結菜はまだ俺のこと友達くらいにしか思えないんだよね?でもそれでも嬉しいんだ。だって存在が忘れられていた時から比べたら、かなりの前進だからね」
「累…ありがとう。私に無理強いせずに見守ってくれて、私、その気持ちに甘えないように累にまた恋できるように頑張るよ」
そういうと累は寂しそうな顔をした。だがすぐにいつもの穏やかな表情に戻って私のおでこにキスをすると仕事に戻っていった。
(おでこにキスって…かなり恥ずかしいんですけど)
スマートな所作で防ぎようがなかったが、その威力はかなりのもので恥ずかしくて赤面した。
(もう。累はこういうことスマートにするから…。昔の私はこういう時どんな気持ちだったのかな)
なんとか思い出そうと試みるが全く思い出せなかった。
体を休めつつ時折家事をして過ごすことは今まで終電ギリギリまで仕事をしたりと熱意だけで仕事をしていた時に比べてあまりにも時間がゆったりと過ぎていって、会社に戻った時、元に戻れるか不安になる時があった。累と時間が取れるかと思っていたが、彼は私の看病の間に溜まりに溜まった仕事をこなすために食事やお風呂、トイレ以外は仕事部屋にこもって出てこなかった。そうさせたのは自分なのだが少し寂しいと思ってしまう。
(これも恋情からくる寂しさなのかしら。だったらいいのにな)
色彩検定のテキストをめくりながらそんなことを思った。
そんな日々が続いているなか、仕事がようやく落ち着いたのか、累がリハビリも兼ねて散歩に行こうと誘ってくれた。
「嬉しい!ずっと家にいたから体が鈍っちゃって。どこにいく?」
私はウキウキしながら着ていく服をかがえていると、累は少し電車に乗って静かな海辺を散歩しようと提案してくれた。
海は好き。広々とした海岸をサクサク歩いたり、海原を眺めるだけで色々な嫌なことが吹き飛んでしまうから。
「私が海を好きなのを知ってたの?」
「え?結菜も海好きなの?それは初耳だな。じゃあこれからも時々一緒に散歩しよう」
累はダウンコートに首元にマフラーを巻き付けながら答える。
(そっか。累は私が海が好きなことを知らなかったんだ)
どうしてか和からなったけれど、過去の私ではなく、今の私を見てくれているようで嬉しかった)
初めて累が“私”を見てくれた。嬉しい…。過去の私がいなくても。累は私を愛してくれるかな。だったら嬉しいな。
ようやく心が動いた。そうなると気になるのは累がどうして海が好きなのか。それを聞きたくて厚着して外に出たあと累に質問した。
「ねえ、累はどうして海が好きなの?」
累は少し考え込んだ後、答える。
「広い海原を見るのが好きなんだ。ちっぽけな悩みが吹き飛ぶし、美しいし。ほら、建築士は常に綺麗なものと接しないと感性を磨けないからね」
累らしい答えだった。でも私と考えが似ていることがなぜか嬉しくて心がソワソワした。