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世の中には "良く分からないけどそうなっている" というモノが沢山ある。
例えば、ブラジルナッツ効果というものがある。
これはブラジルナッツというミックスナッツの缶を振ると、最も重くて大きいブラジルナッツが上に集まってくる。この現象は重力に反しており、いまだに物理学では解明されていない事象の一つだ。
まあブラジルナッツの例は無害だから良いものの、中には非常に危険な事例も存在しており、国内外で犠牲者も出ている。
そんな昨今、政府は国内にこの "良く分からないけどそうなっている" 奇妙なモノが確かに存在する事を認め、そういったモノを "特異事例" と命名し、その取り扱いについて注意を呼びかけた。
そして都内のとある不動産管理会社が管理する物件もそういうモノの一つである。
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野中 ひろみは今年の春から大学生になる。
都内の某私立大学だ。
千葉の実家を出て一人暮らしをすると決まった時は不安も大きかったが、いざ物件を決める段になるとようやく期待が不安を上回った。
ひろみの実家は彼女にとってなんとなく息苦しさを感じる場所だった。
彼女の両親は規則に少し厳しすぎるところがあり、たとえば夜遅くまでの外出はもちろん、友達との長電話や部屋でゴロゴロする事すら彼女にはちょっとした冒険みたいに感じられる程だった。
千葉のド田舎であるのでまだ暴走族なんてものが存在していたし、そういう地域の高校生なんて飲酒・喫煙あたりを嗜んでいる者も多いが、ひろみは別だ。
ひろみは品行方正を地で行く健全な高校生であった。
それは別に悪い事ではないのだが、その生真面目さが彼女と同級生たちとの間に溝を作ってしまった部分がある
とはいえひろみの両親は彼女を厳しく育てるばかりではなく、それと分かる形ではっきりと愛情表現もしてきた。だから彼女にとって家は安心できる場所である一方で、何だか不自由さも感じられるような狭い箱のような場所でもあった。
だから大学生活を機に一人暮らしを始めることにした時、ひろみはその決断に少しの罪悪感を感じつつも、どこかで小さな解放感とワクワクを感じていたのだ。
そして今、ひろみは大学の4年間、あるいはもっと長く暮らす事になるであろうマンションの前に立っている。
今日は内見の予定だったが、ひろみはもう心の中で既にこの物件に決めていた。
築浅で小綺麗な見た目。セキュリティ面もしっかりしており、駅から近く、コンビニ、スーパーなども徒歩圏内。
なにより、家賃が安いとくれば否やは無かった。
なにせ8千円だ。
1日8千円ではない。
月8千円なのだ。
ロケーション的にワンルームで7万~10万が相場。なのにこの家賃というのは魅力的に過ぎた。
ひろみの実家とて裕福なわけではない。畢竟仕送り額も相応のものになるのだが、家賃がこれだけ安ければ毎月浮くお金も増えるだろう。
問題はその物件が政府が定める所の "特異事例" であるという点だ。
説明のつかない現象には説明のつかないルールが適用されている場合が多く、"特異事例" に向き合うにあたってはそのルールを守る必要がある。
大切なのは、なぜそんなルールが存在するかではなく、そのルールを守れるかどうかだ。ルールの存在理由などは誰にも分からない。分からないからこその "特異事例" 認定なのだから。
そしてひろみは、不動産屋の話を聞いて "守れる" と判断した。
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内見には落合という名の立ち合い人が同行する事になった。
落合は細身の中年男で、表情も殆ど変わらない。
肌色は余り良くなく、枯れた印象を受ける。ひろみは彼に「栄養失調のゴボウみたい」などという失礼な印象を抱くが、勿論口には出さなかった。
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落合は運転中も殆ど喋らなかった。
気まずい無言の霧が車中に充満し、助手席のひろみは少し息苦しさを覚えてしまう。
不意に不動産屋でされた奇妙な質問を思い出す。
──野中さんは6月生まれなのですね。すると、誕生花はユリですか
質問そのものは然程奇妙なものではないのだが、果たしてそれが不動産屋でされるべきものなのかという疑問がある。
だがその質問が何だかとても厭だったのをひろみは思い出した。
「あ、あの」
我慢できなくなったひろみが思わずといった風に声を出すと、落合の耳が少しだけぴくりと動く。
「はい」
応えはあったが、今度はひろみが口を閉じてしまう。
何を言えばいいのか分からなかったのだ。
余りに重苦しい沈黙に耐えかねて思わず呼びかけてしまっただけで、何か特別話したい事があったわけでもなかった。
あれを聞こうこれを聞こう、とにかく何かを話そう……そんな事を思っているうちに車が目的地にたどり着く。
落合はマンションに併設されている駐車場に車を停め、淡々とした様子で車を降りた。
ひろみも慌ててドアを開け、落合の後に続く。
駐車場はマンションの真横で、ほんの数秒数十秒でエントランスまで辿り着ける。そしてエントランスの前に着くと落合は「こちらになります」と言った。
しかしひろみはマンションを見ずに、じっと落合の掌を見る。
落合は掌を上に向け、「さあこちらですよ」という風な所作をとっているのだが、五指がまるで猫の手の様に折り曲げられているのだ。
「ああ、この指ですか」
「はい、これもその、"ルール" の一つ……でしたよね」
「ええまあ」と落合が答え、少しの沈黙を挟んでから話を続ける。
「マンションの住民は "マンションを指さしてはいけない"──……これは大切なルールです。ただ、この"住民"というのは単純に住んでいる人を意味しているわけではありません。かなり広い範囲で適用されているようで、このマンションを管理する管理会社の社員にも適用されます」
「もしルールを守らなかったら……」
ひろみがそう言うと、落合は不意に視線を逸らした。視線を追ってみると花、花、花。
駐車場のコンクリートブロックに幾つもの献花が並んでいる。
どの花も美しく、ひろみの目にはつい最近捧げられた様に見えた。
だが──……
「ああなります」
落合の声をきいたひろみは胸がきゅうっと締め付けられる感覚を覚える。下腹部がぞぞっとするような、本能的な恐怖を感じた。花の美しさなど何の慰めにもならなかった。
落合の声には何の感情もこめられていなかった。目の前の事をそのまま言ったに過ぎないとでも言うような、そんな乾いた声だった。
落合の声に恐怖したのか、並ぶ献花の禍々しさに恐怖したのか。
ひろみは自分でも良く分からなかった。
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落合は少し先を歩きながら、ひろみをマンションの入口へと案内した。
マンションのロビーは思ったよりも明るく、清潔感がある。
特に違和感は感じられない。
「エレベーターであがりましょう。"ルール"は覚えていますか?」
落合の質問にひろみは頷く。
「はい、ええと、"必ず4階を経由しなければいけない" でしたよね」
「ええ、そうです。必ず守ってくださいね」
エレベーターを使う際は降りるにせよ昇るにせよ、必ず一度4階に立ち寄ってから目的の階に向かわなければいけない。
だから2階や3階の住民はエレベーターを使わずに階段で1階へ降りたりする。階段を使用する場合は "ルール" 適用されないのだ。
「あ、でも4階の人はどうするんですか?」
「4階に人は住めません。……部屋はあります。しかし、住んではいけないのです。それも "ルール" です」
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彼らが到着したのは見晴らしの良い6階だ。
内見する部屋の前に立ち、ドアを開ける。
室内は広く、日当たりも良い。
間取りは1DKとやや狭いが、一人暮らしなら特に困る事もないだろう。
ひろみはスマホを取り出してメモしておいたルールを確認する。
そして靴を脱ぎ、それをさかさまにして玄関に置いた。
靴は底の部分を上に向けねばならない。
こういった "ルール" は管理会社から渡されたリストによれば6個ある。
──1つ1つは簡単だけど……
最初見た時にはこんなの簡単に守れると思っていたひろみだが、胸中に不安の黒雲が広がっていくのを自覚していた。
「でも、8千円だしなあ」
思わず口に出てしまう。
あ、と思った時にはもう遅く、落合がひろみの事をじっと見ていた。
「い、良い部屋なのに、8千円なんて凄いな~、って」
部屋を契約する気がないと思われたくなかったひろみは、そんな事を口走る。
なにせ "特異物件" だ。
普通ではないのだ。
そうなると、そこを管理している会社の社員の心象を損ねて得する事なんて何もない。
いざという時に頼れなくなってしまうかも、と思った所で、ひろみはふと考えてしまった。
その "いざという時"、つまりルールを守れなかった時の事を。
幾つも並んでいた献花を。
ひろみの胸に渦巻いていた黒い何かが、ぶわりと膨らんでいく。
そんなひろみの心配、不安が表情に出ていたのか、落合が声をかけた。
その声には先程までとは違って、妙に熱がこもっている。乾ききった声ではなく、活きた声といった感じだった。
「不安なのは分かります。しかし、もう一度リストを見直してみてください。どれも簡単でしょう? そしてよく考えてみてください。例えば法律です。法律は幾つも種類があり、数もとても多い。日本には憲法を含めて約1,900の法律と約5,600の政令・省令など7,500近い法令があります。こんなもの全部覚えられるわけがない。でも私も野中様も極々自然に生活できていますよね? 警察の御厄介にはなっていないはずです……ですよね? つまりそういう事なんですよ」
そういう事? と小首を傾げるひろみに落合はなおも言葉を紡ぐ。
「この"ルール"も、最初は意識するかもしれませんが慣れれば無意識のうちに守れるようになりますよ。ただ、慣れているつもりが実は舐めていたなんてこともありますから、そこは気を付けてください。余り気にしすぎては日常生活にも支障が出ますが、簡単に守れるものばかりだからといって舐めてしまえばひょんな事から "ルール" を破ってしまいます」
ひろみは落合の言葉を聞きながら、「確かに」と思う部分があった。
マンションを指差してはいけないという "ルール" などは普通に生活している分には破る心配はないだろう。
エレベーターの"ルール"や靴の"ルール"など、気を付けなければいけない事もあるが、それも守る事自体は難しくはない。
確かに日常生活で無意識のうちに守っているルールは数多くある。そう考えると、このマンションの"ルール"も、やがてはその一つになるのかもしれない。
「そうですね、慣れるしかないですね」ひろみが微笑みながら言うと、落合は「そうですね」と、ほんの少し口元を緩めた。
それは落合がこれまでひろみに見せた中で最も温かい表情だったが、どこか投げやりというか、諦念の様なものが滲んでいた。
──大丈夫、"ルール"はたった6個しかないんだし
「私、この部屋に決めます」
「……そうですか、そうなると申し込みの手続きの為に一度事務所へ戻らないといけませんね。野中様につきましては親御さんが保証人となってくださるとのことなので保証会社の審査は不要です。大家さんの承諾についても問題ありませんので、申し込み手続き後はすぐに入居に関する契約を取り交わす事になります。本日、印鑑などは……」
「はい、持ってきています」
「……わかりました。ただ、入居申し込みについては書類を取り交わすまでは本決まりではないので、移動中もじっくり考えてみてくださいね」
ひろみは笑顔で頷くが、ふと落合の声からすっかり熱が失われている事に気付くと、胸の奥で何かがざわりと蠢いた……ような気がした。
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私は酷くうんざりした気分でハンドルを握っていた。
助手席には能天気そうな男子大学生が座っている。
これからコイツを例の物件へ連れて行かなければいけないのだ。
本当は連れて行きたくはないが、連れて行かねばならない。
"ルール"だからだ。
中野 ユウタというこの男子大学生はとにかくくだらない話をべらべらとべしゃり、私はすぐにコイツが嫌いになってしまった。
だが仕事を放り出して辞めるわけにもいかない。
既定の年数、この仕事を勤めあげなければいけない。
なぜかって?
"ルール"だからだ。
入居者には入居者の"ルール"があるが、管理会社側にも管理会社の"ルール"がある。
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「へぇー、ここが! 綺麗っすね! 普通の賃貸なら結構高いんじゃないっすか? 駅まで10分もかからないし、環境もいいし、ここが8千円ってのはやばいっすわ!」
そんな事を言う中野の顔を私はじっとみた。
コイツは嫌いだが、それでも私が案内した人間だからだ。
もしかしたらもう二度と見られなくなるこの男の顔を、私はしっかりと目に刻み込んでおかねばならないと思う。
所詮偽善だと言われるだろうが、私は私に出来る事をし、言える事を言わねばならない。
──願わくば、彼が翻意してくれますように
私は駐車場の壁に備えている白いユリの花を見ながらそう思った。