3・
花火は綺麗だった。人混みの中で夜空を見上げてみる大輪の花ではなく、たった二人で膝を寄せ合い、うつむいて見る子供だましの物だったが、とても綺麗だった。煙は余計だったが、すぐ側にいる幼馴染の顔が、とても幼く見えた。
瞼の裏の残像に気をとられていた俺に、時間の経過を教えてくれたのは幼馴染の声だった。
「昨日、あのまま寝たの? ちゃんと布団で寝なよって、あれほど言ったのに。縁側で寝るの、本当に好きだね。
ほら、かよさんが朝食… もう、お昼だわ。とにかく、ご飯用意してくれてるから、食べて散歩にでも行こう」
頭は起きていた。ただ、体が頭に付いていけてなかった。
「いつまでも寝てない」
「昨日の花火、思い出してた」
目をつぶったまま、鈍い口を動かした。
「… 綺麗だった?」
「ああ… 綺麗だった」
可愛かった。
「じゃあ、覚えておいてね。また来年、やろう」
「もう、来年?」
「たまにやるから、綺麗なんじゃない。それに…」
そこまで言って、何かを俺の顔にかけた。
「冷てっ!!」
その液体の冷たさに慌てて体を起こすと、縁側の前で麦茶のポットを手にした幼馴染が立っていた。ポットの中身は、半分も無かった。
「ほら、時間が勿体無いよ」
そう言って笑う幼馴染は、昨日より少し幼く見えた。
「ばあちゃんは?」
「今日は忙しいみたい」
家の奥を見渡しても、姿どころか気配すら感じなかった。
「俺、ここでしか飯、食ってない気がする」
狭い縁側の向こう側は八畳程の座敷で、大きなちゃぶ台と大きめの仏壇があった。
「ここは、貴方の一番お気に入りの場所だから」
背中で聞いた幼馴染の声が、なんとなく寂しげ聞こえた。
「帰ってきて、じいちゃんに挨拶もしてなかった」
あの仏壇には、じいちゃんの位牌があったはず。ここからだと、霧がかかったようによく見えない。
「散歩から帰ってからにしよう。みきさんの好物だったお饅頭買って来よう」
腰を上げた俺の手を、幼馴染が握った。その力はとても強くて、とても熱かった。まるで、仏壇に行かせまいとしているかのようだった。
「ね? 時間が勿体無いよ」
もう片方の手で、つないだ俺の手を包んだ。今度はとても優しかった。
「… ああ」
繋いだ手を見ると、とても白かった。夏なのに、日に焼けていない肌は、昔海で見つけた貝殻を思い出した。あれは、いつの時の家族旅行だった? 家族? そうだ、帰ってから父さんと母さんに会っていなかった。
「父さんと母さんは?」
「… 今年はかえってないって、かよさんが言ってた」
帰ってない? 二人とも、この家から、町に仕事に行っていたはず。
「ねぇ… 私の名前、呼んでみて」
繋いだ手をツンツンと軽く引っ張って、幼名馴染みは俺の意識を自分の方へと向けさせた。
「… 名前?」
「そう、私の名前」
昨日から考えてる。
「そろそろ、名前で呼んでほしいな」
幼馴染の悲しそうな笑みを、俺は何回も見ていたはずだ。何回も? そうだ、いつも俺がこんなに悲しそうな顔をさせていた。いつも…
「だんだん、思い出すのに時間がかかるようになってきた。きっと、来年はかえって来ることも忘れちゃう」
俺を映す瞳から、涙が溢れた。
「ご免なさい。… それが、正しいんだって分かっているのだけれど、そうじゃなきゃいけないって、頭では分かっているのだけれど… 一年に一回でも、たった三日だけでも、貴方に会いたい。少しの時間でもいい。この縁側で話をするだけでもいい… 貴方に会いたい」
一年に一回… 三日間だけ… 三日間? じゃあ、今夜には俺は帰るのか? 帰る? 何処に帰る? この家に変えって来たんじゃないのか?
流れる涙をそのままに、幼馴染は握った俺の手に力を込めた。
「来年も会えるから、そんなに泣くな」
名前を思い出せと、もう一人の俺が叫んでいた。
「一緒に食べたスイカの味も、昨日やった花火も、私しか思い出に出来ない。だから… せめて、私を名前で呼んで」
思い出せ…
「来年も…」
風鈴もどきの鈴の音が聞こえた。同時に、蝉のなく声があちらこちらから聞こえだした。
なんて言おうとしたのか忘れてしまい、口を開けたまま、幼馴染を見つめた。
「ないよ。きっと、来年はこない」
それでいいんだよ。と言いながら、幼馴染はさらに泣いた。俺の手から両手を放し、その小さな顔を覆って泣いた。
「泣くなよ、奈美…」
その細い肩を抱きしめたくて、その涙を止めたくて、一歩足を出した瞬間に、幼馴染の名前が自然と口から出た。
「忘れてて、悪かった」
抱きしめると、柔らかな髪が俺の鼻をくすぐって、微かに甘い香りがした。
「奈美」
もう一度呼ぶと、体の中心が暖かくなった気がした。
「来年はないよ。十年前、貴方がちゃんとかえって来てくれたあの夏から、そう毎年、自分に言い聞かせているの。来年はない、今年で終わり。って。だけど… やっぱり貴方に会いたい」
涙は止まったのか、鼻を鳴らしながら奈美は俺の胸元に顔を埋めた。その奈美の頭を撫でながら思い出した。この髪型は、十年前に俺が切ったものだ。背中まであった長い髪を、帰省したあの夏に、この縁側で切ったんだった。あの夏、美容師になったばかりで、ようやく給料で鋏を一挺買えて… その鋏で初めて切る髪は、この髪と決めていたから…
「そうだ… 鋏…」
導かれる様に、視線が座敷の奥、仏壇へと向いた。さっきは気が付かなかったが、そこには傾き始めた太陽の光を反射させる何かが置いてあった。それが何なのか、俺は何となく分かった。そして、その少し奥にある写真立てに、忘れていた二人の顔を見つけた。
「そうか、父さんと母さんは、もうここには帰って来ないか」
そう呟くと、胸元の奈美が小さく体を震わせた。
「あの日、私も一緒に帰ればよかった。あの年だけよ、一週間も帰省していたのは。あれ以来、帰省はこの三日間だけ」
あの夏、都会に戻る俺を、夫婦揃って町の駅まで車で送ってくれたあの日。二日前に奈美が俺を見つけてくれたあの道で、事故にあった。去年の俺なら、それがどんな事故だったのか思い出せていたのだろうか? 今の俺には、記憶はそこで終わっていた。
「これ、プレゼント」
そう言って奈美が出したのは、二つに割った少し大きめのスイカの種だった。
「貴方はくだらないって笑うだろうけど…」
少し笑いながら、奈美はその種の片方を自分で飲み込んだ。
「私も、くだらないって思ってる。だけど…」
話が終わる前に、俺は残った方を飲み込んだ。
「まるまる一粒じゃなきゃ、効果ないんじゃないか?」
「ただの、オマジナイ。また、会えますようにって」
そう言うと奈美はもう一粒、今度は割れていない種を取り出し、自分で飲み込んだ。
■
故郷の田舎道はとても暗かった。今だに外灯一つない田舎道を照らすのは、奈美の持つ小さな提灯が一つだけだった。整備されていない田舎道、右側は山が連なり、左側のガードレールの向こうは数メートル下に田んぼがあって、田んぼの向こうには山。それが県堺まで続いているが、それは記憶の中だけで、今の俺のは足元の砂利道しか見えない。そこを、奈美と手をつないで歩いていた。
「ありがとう」
不意に、奈美が言った。家からここまで、何の会話もなかった。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
足が止まった。
「私の名前を思い出してくれて、ありがとう」
顔を見たいのに、見えるのは提灯の明かりだけだ。
「ありがとう」
そう言って、奈美は俺の背中を押した。俺の足は、当たり前のように前へと進む。もう、明かりはない。
「桂… またね」
小さな小さな呟きは闇夜に溶け込み、確かに俺の耳に届いた。