いつ脅威がやってきてもいいように、非常な神経を研ぎ澄ます。巨躯の彼も警戒していないというわけではないが、やはり非常事態ではないからか少し緩い。
村の近くに耕された畑に行くため、普段通り外へ出て行く者も在る。そこへは当然自警団も着いて行くが、一人二人だ。警戒体勢を取っているわけではない。
穏やかな午前だった。
特に目立った事もなく、砂のように時間は流れていく。
やがて昼前になると、交代の番である杖術の彼がやってきて、巨躯の彼と変わった。双剣の彼女は自分と巨躯の彼、二人で門番をしていると言っていたが、どうやら合間合間に誰かがことがあるらしい。たしかに、ここを二人のみでずっと見張るというのは、少々無理がある。それでも、立つ時間は二人よりも短いようだが。
そうして巨躯の彼の背中を見送り、私も少しだけ離れることを彼に伝えた。歌うたいの昼告を見守るためである。まさか村は通常運転なのに、歌うなとは言えない。
返事の代わりに、杖術の彼はこくりと頷く。決して声を出すのが億劫というわけではなくいつも通りなので、それが彼にとっての反応なのだろう。
首肯を見て監視塔を離れると、歌うたいの家へと向かう。朝には何人もいた自警団の姿は既になく、村内を往けども茶色の外套を纏う者はいない。見知った自警団の者も、たまたま出会った、という風だった。
つまり完全に、普段通りの状態へ戻っているのだ。
恐らくこれを理解するには、魔獣に直接聞くしかないだろう。だがそれは本末転倒である。その魔獣に備えて警戒しているというのに、到来を望むしかないというのは。
そして、誰に理解されることもない。
分からない、どうするべきなのか。せめて自分だけは、警戒していなければと気を引き締める。
そう考えながら歩いていると、程なくして歌うたいの家が見えてきた。
遠征と警戒体勢のとき以外は、毎日のように見てきた黒い屋根の家。しんと、この家の周りだけはいつも鎮まりかえっている。歌の練習をしているところは、今のところ遭遇したことがない。家から声が漏れてくる、なんてことはないのだ。
一体どうやって、あの綺麗な声は保たれているのか。
思いながら、呼び鈴を鳴らす。
猫を模した、針金の細工。
いつも通り二回、それを引っ張る。
反応はすぐに返ってきた。はい、という淡々とした返事と共にドアが開く。
「……騎士様?」
黒曜石のような目が私を見つめる。今日の装いであるブラウスとデニムスカートは、たしか少し前にロラが譲っていた服だったか。私も一度服を押し付けられたことがあるが、袖を通す機会はないだろう。
「はい、クラリカ様」
どうしてか、私を見るなり夢を見るような目を見開いた。いつもと同じ時間にやって来ただけなのに、予定外の客がやって来たかのような反応。
「どうかされましたか」
声を掛けると、彼女はさっと自分を回復したようだった。
「いいえ、今は来ると思っていなかったから」
今は来るとは思わなかった、という言葉の意味を図りかねる。
「……何故、ですか」
「警戒体勢なのよね? だから意外だと思ったわ」
心内に大きな波紋がたったようだった。空白があり、脳震盪から目覚めるような感覚で、その言葉は私の中に入ってくる。
警戒体勢というワードが、私の心臓を掴んだようだった。
「騎士様?」
その呼びかけで、目の前の風景が奥行を取り戻す。
「……失礼しました」
「警戒、してるのよね? まさかあの程度の魔法、弾いていないなんてことないでしょうね?」
完全に状況を理解している者が、ここにいる。それだけで、暗黒の前途を照らす光明のように感じられた。
「いいえ、いいえ。その通りです。ですが皆が普段通りになってしまい」
「そうでしょうね、仕方がないわ」
答えが光となって、暗澹としていた大気を貫く。状況を打破する弩砲のように感じられた。
「失礼ながら理解出来ていないのです。一体どういう事なのでしょうか」
ああ、という打てば響きそうな返答。少なくとも私よりも理解している、そんな風に思えた。
「……その前に昼を告げてしまいましょう。午後になってしまうわ」
言いながら、一人で歩き出してしまう。答えを授かる前に間を挟まれると、お預けされた犬を連想した。私としては、これからどうするべきなのかの指針となるため速やかに答えが欲しいところなのだが、そんな意図など意に介さずに彼女はヤグラへの道を進んでいく。
ただ、答えない、という意地の悪い感情はないだろう。なので仕方なく、その背中を目指す。その歩は案外速く、すぐ近くにあるとはいえもうあと半分という距離まで進んでいた。
余裕すら感じられる。現状は、いつ魔獣が不意打ちに来てもおかしくないという状態なのに。ゆとりがあるということは彼女の中では、未だ今は安全なのだという表れなのだろうか。
分からない。
その蟠りを抱えたまま、私はその背を追うことにした。