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episode10 「フリストレールの人間であればね」

 途端。

 膠着していた空気が崩壊して、睨み合っていた巨狼たちが即座に踵を返していく。

草の群れが微かに騒いだ。その音が、ついぞ感じたことのない、何かに烈しくせきたてられるような焦りと不安となって、胸を突き抜けていく。

 大地をゆすって遠い雷のような地鳴りをさせ、何かが近づいてくる。

 なんてタイミングで、と私は思った。瞬間、理由は判然としないが、脳内に、あの夜の記憶が一気に噴き出してくる。その焦燥感から、記憶の入った箱をひっくり返してしまったのかもしれない。

 記憶の洪水が頭を掻き回していく。渦を巻いて、あのときに思ったことが立て続けに浮かんできて、私の視界を狭めていく。

 その時間はわずかな間に過ぎなかったが、まるで洪水でも身に受けたかのような奔流であった。やがて氾濫が止むと、すっかり焦燥は落ち着きを取り戻して冷静になる。

 既に眼前の巨狼たちはなく、近づいてくる地響きだけがあった。視線を横に流すと、長鎗の彼女は平静にしている。ように見えた。実際のところは、彼女にしか分からないが。

 山のような輪郭が現れる。あのときは何故か見逃してもらえたが、今回は襲撃された後の話だ。また死体を食い漁り、そして去って行く。そんな希望的観測は通じないだろう。

 村長の言うとおり、もう迎え撃つしかない。


「リーデ様、他の自警団の方々は」


 あの巨体に対するには、二人ではあまりにも無理だ。そう思い、問うた。


「外壁を警備していたり、家で待機しているか。まちまちですね。もう誤魔化しようがありません、戦いましょう騎士様」


 頷く。

 たしかに、今は青い彼女が薄暗い灯りを見えづらくしている。だがしかし、たったいま出来たこの巨狼たちの死体は騙すことが出来ない。

 息絶えたばかりの屍たち。

 それにより、いまここで戦闘があったことを察せられてしまう。魔獣の嗅覚がどれくらい優れているかによるが、すぐに私たちの存在は知られてしまうに違いない。今のところ、魔獣に狼らしい生態は見ていないが、それはきっと私が長く相対していないからだ。魔獣の生態を観察したところで、結局分からないことばかりだろうが、しっかりと相手を見るのは悪いことではない。

 前回にその余裕はなかった。

 だが戦闘するならば、熟視もしなければなるまい。

 場の空気が急速に冷えていく。緊張感に締め上げられて、全身の筋肉がこわばり、それこそ少し体を動かしただけでもぎしぎしと音を立てそうなほどに。

 大地が波のように揺れる。

 あれがすぐそこまでやって来ているのだ。

 その巨体は月蝕めいて空を覆い隠し、先日の王と同じように見上げるほどである。カタツムリは特殊な魔獣であったが、狼の魔獣はどうだろう。

 単に巨大であるならば、驚異的な魔獣という話で戦闘を行うだけなのだが、カタツムリの魔獣のような特別な存在の場合はその限りではない。

 もちろん特殊な魔獣だからといって、人の記憶がある個体とは限らないが、頭の隅には残しておくべきだろう。


「騎士様。皆を呼びます。監視塔の呼び鈴が一番早いでしょう」


 言いながら、駆け出す。


「お願いします」


 ここから一番近い監視塔は、私が普段使用しているヤグラだ。呼び鈴が備え付けられており、即座に村長の家へ通達出来るようになっている。

 今まで私が使用した例はないが、一度だけ。村に巨蜴の魔獣が現れた際に使われた。あのとき私は野盗の間者ではないかと疑われていて、魔獣がやって来たことがきちんと村長に伝わっているかを聞いていたか伝達するために使用したのだ。

 当然、緊急に伝達する事がないことが望ましいが、あれ以来再び呼び鈴が鳴るとことなる。

 長鎗の彼女が戻るまでは一人で。そして自警団の皆が集結するまでは二人で、ここを防衛しなければならない。あの魔獣を相手に。

 もちろんそれが私の役目なので、何か反論があるわけではない。だが、同じ巨体な存在でもカタツムリの魔獣は抵抗がなかったからこそ討伐することができた。しかし狼の魔獣には明確な攻撃性が垣間見える。

 それを相手取るには、一体どう立ち回るべきなのだろう。

 眼前の、山岳のような相手は。


「あぁ、なんだ。また君かい」


 生唾が舌の上を走る。

 前回は無言だった魔獣が、今回に至っては発言したのだ。その口調と声色は風貌に反して優しく、心を撫でるように温和だった。

 また、ということはあのときの魔獣で間違いない。そして、相手も私のことを覚えている。

 緊張で身が強張らないよう息を吸い込み、そして吐き出す。


「何故、この村を襲うのですか」


 慎重に。

 逆鱗を逆なでしないよう。


「別にどこでもいいんだ」


 眼を細めて口はうっすらと開き、口角が上向きとなる。犬でいう楽しそうな表情。


「フリストレールの人間であればね」


 愉悦の表情。

 蹂躙していくことに悦楽を感じるといった旨の発言だった。戦場でも時々見かけるが、まさか魔獣でそのタイプの者と相対することになるとは。そして、魔獣であるにも関わらず、どうしてかこの国の民に敵意を持っている。

 ただそうなるとやはり、何故あのときは見逃されたのかが不明だ。それに、そのような性質ならば、むしろ集落や街に積極的に攻撃するように見受けられる。

 しかしそのような話は聞かない。

 やはりそれは、記憶を操作する術があるのだろうか。それとも、別の理由があるのか。よく分からない。

 思考していたそのときに、前足が振り上げられる。巨体による圧し潰し。それは明確に、開戦の合図でもあった。

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