湿原を目の届く範囲まで眺めていく。あれだけ背が高いのだ、湿地を拠点としているならば角くらいは見えていい存在である。視界を遮るものはとりわけなく、澄み切った水盤の水を見るように、隠れる場所もなく見渡すことが出来た。
ぱっと見では何もない。
この湿地帯で目立つものといえば、兵団が展開した拠点くらいのもので、突出して立つ者は見当たらなかった。隠れる方法として、横たわっている場合だろうか。
とはいえこれだけ広い湿原だ。
一目見たくらいでは、一通り見たとは言えないだろう。
拠点の方や、さらに奥の地点にも視線を巡らせてみる。湿地の先は山になっているようで、身を隠すならあちらのほうが適しているだろう。
湿原を捜索し、さらに山まで探すとなると骨が折れる。山はいくつかに連なっており、全てを見て回っていては夜に間に合わない。
山に入るとしても、本当に手前までとなるだろう。
野草をかき分けながら、持ってきた簡易食糧を齧る。砕いた木の実を蜂蜜で固めたものだ。もう残りもあまりないため、今夜には決着して帰路に就きたいところではある。
カルムの商店にそういったものはない。住処とし、尚且つ一次産業を行っているのに簡易的な食糧を売る必要もないためだ。保存食なら、家々で制作していることだろう。
草むらが次々と穂先をひるがえして波を送る。膝より上までの柔らかい草が川のように広がっていた。中には胸元ほどの野草もあり、そういったものは避けて進んで行く。
湿気を含んだ空気のせいで、山がとても遠くに見える。煮詰めたような澱みが、そこまで温度は高くないにも関わらず首筋にへばりつくような汗を滲ませた。水筒は失せてしまったため、ただ水分を失っていくばかりである。
しかし、進めども進めども、目に留まるのは動植物と水たまりばかり。鹿の魔獣どころか口を利ける者にすら出会わない有様だった。
ただ、暫く進んだものの草が足を掴んだり、緑に赫奕して私を干物にする様子はない。やはりあの現象は、カタツムリの魔獣によるものらしい。夜に会うと言っているのだ、少なくともそれまでは手を出しては来ないだろう。
次第に乾きが喉を締め付けだした。
水は見えるのに、水分は摂れない。この中で水筒を探すとなると、まるで砂漠の中でガラスの破片を探せと言っているような心持ちになる。もちろん、本当にそれほどの難易度ではない。
湿原に点在する水たまりのそれは、恐らく飲まないほうがいいだろう。
そうして湿地の最奥にたどり着く頃には、昼間になっていた。倦怠の色が全身を薄雲のように包む。
全体をひと通り見て回れたわけではない。だが、あの目立つ背丈すら確認出来ず昼に至ってしまっている。それどころか、痕跡すら見つけられない。
姿が見当たらないということは、湿原に生息していることを前提として考えるならば横たわっているということになる。屈んだとて、なお目立つ背だ。
横になるということは野草が押し潰される。それなのに、今のところ形跡はない。不可視になれるカタツムリの魔獣ですら、そこにいる跡があるのだ。もし同様に姿を消せるとしても、何かしら残るはずである。
まだ見つけられていない、という可能性はあるだろう。しかし、探し始めてから一度も目視してないのだ。その間、鹿の魔獣はずっと横たわっているということになる。
もちろん、夜にしか活動しない。という理由も考えられる。現に鹿は夜行性だ。ただそれならば、なおさら、鹿の魔獣が消えていった方向に倒れた野草がないのはおかしい。
それこそ浮いていくか、そのまま湿地外まで移動した可能性はある。まあ、カタツムリの魔獣と違い、痕跡を消せる術を持ち合わせているとしたら、それまでだ。
この広い湿地帯を、痕跡も残っていない状態で探し当てるのは困難である。それも夜がやってくる、その前に。
……ない知恵を絞る。
思うほど時間はない。色々な思考が脳内に渦巻いては消えていく。そして、一つだけ思いつく。
山の上から、湿原を俯瞰することを。
幸い、私は湿地帯の最奥にいる。山へは少し歩けば辿り着く。ただこれは、湿地帯に鹿の魔獣がいることを前提としている。仮に別の場所に潜んでいるとするなら、山は体力の無駄遣いだ。湿地の捜索を続けたほうがまだ有益だろう。
だが山に潜んでいる可能性もある。
湿地と山。
それぞれの否定意見だけが膨れるばかりで、どっちつかずという状態が暫し続く。
そうして。
やがて利点の多さから、山を往くことにした。
利点といってもほんのわずかだ。
湿原を見渡せること。
山を探すことにもなること。
そして、もしかしたら清らかな水があるかもしれないということ。
それだけだ。
山は登ることを目的としているため、捜索に値するかは微妙なところではある。
時間は限られている。
こうして欠点を挙げていってしまうと、やはり湿地に残ったほうが良かったのでは、なんて思ってしまう。山はそう高いものではない。
苦い後悔に染まらないうちに、私は山のほうへと歩を進めることにした。