いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
目が覚めると、私は羽毛のように温かい柔らかな毛布の感触の上にいた。随分と長く眠った感覚があり、体全体が心地よく痺れている。
まるで上等な寝具のような寝心地。とはいえ高級なベッドとは今まで縁がなかったため、比較対象はロラの家のベッドのそれというが、緑の絨毯の感想だった。野外で眠ったとはとても思えない。
水分を奪われておらず、健康面は昨夜と違わない。滲みた外套は乾いており、まるで都合が良かった。本当に、あの魔獣は私に心地よい寝床を提供しに来ただけみたいで、意図がよく分からない。恐らくは考えても明確な答えは出ないだろう。
昇り始めた太陽に醒まされるように、湿原は次第にくっきりと全容を現し始める。黎明の薄い光が、湿原の野草たちに紫白の光芒を撥開させていた。水たまりに薄陽が差し込んで、そのおぼろげな光がひそやかに銀色に澱んでいる。
両膝をあげて、ゆっくりと立ち上がる。
どうやら、代わりの兵士が来る前に起きることが出来たらしい。遠くに豆粒ほどの大きさで、兵士が見える。昨夜は夜闇で見えなかったのだろう。それが昨夜の彼かどうかは、距離があるためよく分からない。
昨夜の就寝前を思い起こす。
金髪の兵士が去ったあと、休息を取るかどうかしばらく考えた。魔力が分かるという義手、その話が本当かどうかという判断が出来かねない。
埃のような無精髭を蓄えた、兵士。嘘を吐くような人物には見えなかったが、油断は出来ない。どんな人間も、嘘はつく。そしてその是か非かの判断は、私には難しい。私には長鎗の彼女のような、嘘か真実かを見極める眼はない。
なので、その人相と損得を考えて判別する他なかった。
一種岩石のように厳つい顔つきで、人を騙すのが得意そうには見えなかった。人は見かけによらないというが、あの外見で嘘つきならば相当のやり手だろう。
私に嘘をつく理由としては、葉の上で休息させることが挙げられる。もちろん明日に響くから休ませたい、という可能性は少なからずあるだろう。深読みするならば、緑の絨毯で休んだらどうなるか見たい、といったところだろうか。
ただその真偽を確かめる方法はなく、いまその場で判断するしかなかった。
弱い者いじめが嫌い。
それは私を弱者として見ているというだろうことか。
白髪だから。
或いは非力そうに見えるから。
そんなところか。
私に対して高圧的な態度で対話しなかったところから、少なくとも純粋なフリストレールの者ではない。もちろん、今はこの国の兵士であることは考慮する必要はある。内心では思い切り罵倒していた、なんて可能性もあるがそんなことは考えても仕方がない。
日中歩き続け、先刻までの緊張感からなんともいえない虚無的な疲れがあるのは否定出来ない。頭だけが五体を離れて漂っていくかと思うような、そんな疲労感。
暫く考えた後、私は体を横たえて眠りが訪れるのを待った。
上等な寝心地を感じたのはその時である。
そうして、沈みこむように寝入ったその後に、私は起床に至ったというわけだ。
空が朝の冷気と共に新鮮に輝く。
昨夜の寒気に比べれば、この程度寒いという感覚には値しない。その中で、未だ寝心地を損なわない足元の緑は、魔力を失ったといえどもやはり特殊な物であるには違いないのだろう。
もう少しだけその感覚に包まれたいところではあるのだが、いつの間にか武装した兵士が二人こちらへ近づいてくるのを見咎めたため、外套を羽織り出迎えることにした。
「おはようございます」
挨拶を完全に無視して、兵士は槍の石突で私の腹を打った。
「報告を聞いたよ、亡霊。魔獣を逃したそうだね」
昨夜の空気よりも冷たい、光を底に凍らせてしまったような陶器の表情。鹿の魔獣を逃したことを指してのことだろう、金髪の兵士はあれから拠点へ報告に行っていたのだ。
「申し訳ありません、闇の中湿地帯に入るのは危険だと判断しました」
舌を打つ。
「亡霊が危険かどうかなんて知った事じゃないよ。本当ならお前があのカタツムリをさっさと斃して、僕らは今頃帰れる予定だったのに。役に立たないね」
申し訳ありません。
跪いて、重ねて言う。
嵐が過ぎ去るまで。
垂れた頭に石突で突かれるのを耐える。
痛みも屈辱もない。
ただ、早く要件を言って終えてくれることだけを待つ。
「そんなてめぇに朗報だ。明るくなったろ? 早く魔獣を探せ。ちゃんと湿原に入ってな」
もう一人が、どろりとした揶揄を命じた。私を嘲り、高圧的な態度で命令することを楽しんでいる。そこには白髪への歪んだ感情の響きがあった。
ただ、鹿の魔獣を捜索する時間を与えてくれるのはありがたい。私としても、予期せず事で対面を崩されてしまったキリだ。敵意なく近づいてきた魔獣、それだけで探す意味はあるというものだろう。どうせ、探せと命じられているのも私だけのはず。
足元に置いたままであった大剣を手に取り、足蹴にされた頭部が解放されるのを待つ。
「ちゃんと夜までにはここへ戻ってこい。化け物とお話合いがあるんだろ? てめぇの話が本当だったら、だが」
カタツムリの魔獣とのことを指しているのだろう。
どのみち、もし鹿の魔獣が見つからなくとも、そうするつもりだった。
やがて早く行けという言葉と共に足蹴から解放されると、立ち上がり大剣を帯革で固定する。
そうして、薄氷を踏む思いで湿地へと入っていく。うねる野草と、緑の赫奕の不安に危惧しながら。