信用することは出来ない。
理由は単純に、魔獣だからだ。
現に二体は魔法を使用し、私から一切の水分を奪おうとした。それは紛れもない事実である。
着地すると、足元は野草に覆われてしまっていた。木道として何枚も置かれている板の内の一枚のみではあるが。
ただ、あの魔獣と同じ魔法を行使するというのが分からない。二種が同じ種族とはとても思えない。魔獣に対して同じ種かどうかを当て嵌められるのかは不明だが、外見はカタツムと二足歩行の鹿である。
それとも、もしかするとこの湿原に生息する魔獣みながあの魔法を習得しているのか。仮にそうだとするなら、この湿地帯に休息出来る場所はない。私と兵団は気まぐれで生かされていることになる。ここに棲む、全ての魔獣に。
相変わらず、魔獣は手を振って敵対心がないように見せる。狼狽えている風にすら見えた。
ただし発せられる声は呻き声ばかりで、意図ははっきりとしない。足元の野草は私を拘束したり覆うということもなく、暫く不思議な膠着状態が続いた。
時間だけが、微風のように吹き過ぎていく。
その中で、その沈黙を崩したのは、またしても来訪者だった。ただし、それは鹿の魔獣でも私でもない。
緑の赫奕に気付き、何事かと確認に来た兵士だった。
「何の光だ!?」
一番近くに配置されていたであろうその兵士。先刻に何度も光り輝いていたと思うのだが、その理由を問うている余裕はない。聞いたところで答えが返ってくるとも思えないが。
ともかく、兵士がやって来たことで場の神経的な不調和は一変した。
鹿の魔獣の呻き声は嘶きとなり、そうしてつむじ風のように身を返して去っていく。素早い動きだ。その姿は闇に吸い込まれていく。
「なんだ、魔獣か!? おい、待て!」
兵士の呼びかけに、魔獣は見えなくなるまでに一度だけ振り向いた。
「ネドコ……ハノネドコ」
足元を指さし、たどたどしい口調のその後に、魔獣は煙のように消えてしまった。
それから、手から物が滑り落ちて着地する程度の数秒間。何とも言えない一瞬の沈黙が流れる。
「今の魔獣はなんだ? あんな奴ら、今まで見なかったぞ」
私に聞いたのか、独り言だったのか分からない口振り。どちらにしろ、報告はしなければいけない。
「分かりません、私がここにいるとゆっくりと近寄るようにやって来ました」
言うと、彼はなるほどなと呟きながら腑に落ちないという風に首をかしげる。今まで見なかったという言葉から、二体が何故急に現れて私に接近していたのかという疑問だろう。実際、私としてもあの魔獣が一体何だったのかよく分からない。
「この板に生えた葉っぱは?」
当然と言うべきか、足元を中心に辺りを見渡しながら状態について聞いてくる。
「あの魔獣の魔法のようです。緑色に光り輝いたかと思えば、このような状態に。今のところ私に影響はありません」
それに、兵士はあくびみたいに「ほーん」と返事する。効果について報告したつもりだったのだが、どうやら私に影響があるかどうかはどうでもいいらしい。
むしろ、今まで会ってきた者のようにお前のことなどどうでもいい、と怒鳴ってこないだけ良心的とさえ思える。顧みて、確かに先ほどの濡れ鼠で彼の前を通った覚えがあった。
その際、嘲笑はなく私のことをただじっと見ていたような気がする。
期待はしない。
恐らくはただ好奇の目で見ていただけだろう。
或いは、彼が金髪であるが故か。きっと移民の類であるため、他の兵士と比べて少しだけ私を侮蔑する意思が薄いのだ。どちらにせよ、彼に対する私の対応は変わらない。
「あぁ、そういえば」
ふと、思い出した風に手のひらを叩く。重々しそうな手甲が、がしゃりと音を立てた。
「何か言ってたな、あいつら。ネドコ、だかどうとか」
ネドコ。
ハノネドコ。
ハは足元のことを指さしていたことを考えれば葉か。つまり葉の寝床ということになるが、この緑の絨毯を指してのことだろうか。
そのまま意味を解釈するなら、展開した葉を敷物代わりにしろということになる。だとするならば、それは保留だ。今のところ敵意が見られないとはいえ、安易に水分を奪う葉の海に身を預けることなど出来ない。
それにこれは罠で、攻撃するそぶりがないと見せかけて、寝床を提供すると言って水分を抜き去る魔法が発動しないとも限らない。
こうして葉を足場にしていることさえ、神経を研ぎ澄ましているのだ。赫奕した瞬間に飛びのかねばという意識が、足元に張り付いている。
そんな意識をよそに、兵士は板に生えた葉を何度か踏みしめて何かを確かめていた。魔法を目撃していない者からすれば、たしかにこれは何なのかと興味が湧くのは理解出来る。
ただし。
「お気を付けを。水分を奪われる可能性があります」
それに、兵士は打てば響くような返事。
「でもこれよ、もう魔力がないぜ。本当にただの葉っぱだ」
言いながら、左手を葉に添えるような仕草。
「何故、分かるのですか」
恐る恐る質問していく。
白髪からの問いだ、いつ逆鱗に触れて殴られるか分からない。
「オレ自身は魔法は使えないが、左腕の義手が特別製でな。魔力が籠ってると反応するんだ」
異様に重々しい手甲は、義手だったからなのかと納得する。
「それは、どのような意図で?」
さあ。
兵士は私の質問に、いたずらっぽく笑うだけで何も答えない。事情があるということだろうか。もしかしたら本当に知らないのかもしれないが、私も別に深堀りする気はない。
ただ、魔力があるものに反応する鉄腕というのは厄介である。
可能性は低いだろうが、もし彼があの義手でロラを触れたら。想像しうる中で最低のパターンだ。
そうならないことを祈るばかりだ。
「じゃあオレは持ち場に戻るぜ。もしここを寝床にするなら、眠りは浅いほうがいい。朝頃に代わりが来るからな」
そう言って、彼はさっさと帰ろうとする。
意味が分からない。
ここは仮にも魔獣が鎮座する地点だ。その監視役を朝までやらない兵団も、そしてそれを教えてくれる兵士も。
「お待ちください。どうしてそのことを?」
「オレは弱い者いじめが嫌いだ。ただそれだけだ」
振り返らずにそう答えると、彼は疾風のような去り方で立ち去ってしまう。段々とその姿は遠のいていき、やがて夜の闇に消えていった。
名前を聞いておくべきだった。
もし彼が、カルムにやって来たとしても対応できるように。