点々と配置された兵士に嘲笑われながら、来た道を戻る。少なくとも、今はあの地点に兵士は配置されていないはず。耐えるのはそれまでだ。
無論、侮辱や恥辱に耐えるわけではない。
浴びせられた、水による寒冷にだ。
今更罵倒や濡れ鼠にされることに、何も思わない。ただ頂いた外套や武具を濡らしてしまったことに対して、自責の念に駆られるばかりだ。
氷の鞭のように風が吹きこんで、頬を撫でていく。
闇の密度が濃くなり、目を凝らしても周囲の状態は見て取りづらい。行ける道は等間隔に置かれたランプの明かりだけだ。木道だけが、私が今活動できる範囲である。
湿原に入るなど危険で、投げ捨てられた水筒を探すなどもっての外だ。もうあれのことは、少なくとも夜間は忘れたほうがいい。いま二人の死体の場所まで案内しろと言われても、恐らくは出来ないだろう。大体どの地点か覚えているにも関わらず。
今夜は、月が出ていないのだ。
星の光りだけが、夜の空に冴え渡っている。
ほどなくして、先刻魔獣と対峙した場所へと戻ってきた。案の定未だ誰も配置されていなかったため、都合がいい。
外套を脱ぎ、鎧を外す。冷えた湿原の中で肌着になるのは厳しかったが、冷めきった金属を身に着けるよりはいい。まあ、僅かな差程度ではあるが。
自分の脱いだものが、他人の抜け殻に見える。木道に広げた装備品を見ると、どこか悲哀感が伴う。ずぶ濡れで重くなった、長鎗の彼女から頂いた白い外套。土の中に埋没していくような気分だ。
肌着を脱いで水分を抜くように絞ると、素早く着直す。持ってきた、乾いた布で体を拭いていく。
ひと通り体を拭き終えると、次は鎧の内側を。金属のため、拭き取って少し乾かせば、とりあえずは身に着けることが出来るだろう。冷たいだろうが、濡れている状態よりは多少楽になるはずだ。
その間、少しでも体を冷まさないように体を動かす。肩を何回か上げ下げし、回す。幾度か屈伸したあと、ふくらはぎの下からくるぶしにかけてを擦る。
兵士時代に覚えた、血流を滞らせないようにする方法だ。この状況では正直焼け石に水だろうが、やらない理由にはならない。
そうして一連の流れを繰り返したあと、鎧を着け直した。
相変わらず、冷たいのには変わりない。寒風に晒され続けているような感覚。ただ、寒くないという心持ちを抱くのはとても重要だ。思うことで、感覚を誤魔化すことが出来る。
ただ、睡眠は取れないだろう。
体が冷えているのは事実なのだ。毛布くらいあれば休息程度は出来たろうが、そんな気の利いた物はあるはずもない。そのまま起きられない、となっても不思議ではない。
そのため、体は動かし続ける。
手のひらをこすり合わせ、後ろで手を組みながら上半身を前のめりに折る。
その姿勢のまま、何秒か。
唐突に、葉をかき分ける音が聞こえた。
体の中に異様な緊張が満ち溢れる。
即座に姿勢を解き、いつでも動けるようつま先に力を入れた。全身の筋肉が、みるみる冷え固まっていくのを感じる。
何かが来る。
そう感じたと同時に、全身の神経を研ぎ澄ました。
このタイミングでの来襲に、身を引き締める。鎧を身に着けた後で良かったと思う。もし肌着を絞っている最中であったら、完全に無防備だったろう。
警戒心を炎のように揺らめかせ、音がする方向へ目を向けると、大きな黒い輪郭が二つ。明らかに、湿原からこちらへ近づいて来ている。
ゆっくりと、しかし急ぐでもない速さ。
2メートルを超える巨躯の彼よりも、さらに一回り大きな影。人間の形のようだが、恐らくは違う何か。存在する可能性はあるが、少なくとも、この大きさの人間を私は知らない。
木道の上に寝かせて置いた大剣を手に取ると、鞘が粉塵となって舞う。
それと共に、心なしか足取りが早くなる。私が武器を手にしたことで、警戒心を抱いたのだ。
私は動かない。
その姿が鮮明になるまで。
感覚が静寂のうちに研ぎ澄まされていく。
そうして、来訪者の容が浮き彫りになる。
虚ろな眼をした、二本足で立つ鹿の魔獣。その手足は細長く、枯れ木のような痩躯に立派な巨角を生やしていた。
体だけ見れば貧弱に見える。
しかし、魔獣。
それだけで、人には予想しえない能力を行使する可能性を考慮しなければならない。
そのうえ二体という数。
たとえ敵意がないと言われたとしても、身構えざるを得ない。
鹿の魔獣が、木道へと上がって来た。そのタイミングで気が付いたが、首を締めあげられているかのような呻き声を上げている。これが歌うたいの魔法のような効果だったのなら、既に手遅れだが、今のところあのときのような感覚はない。
やがて鹿の魔獣が眼前までやって来る。今のところ腕はだらんと下ろしており、敵意はない。
見慣れない者がいて、様子を見に来たのだろうか。まさかあの巨大な魔獣が存在しているのに、縄張りということはないだろう。
しばらく、見つめ合いが続いた。
視線を外した途端、襲い掛かってくる可能性もある。
空気は薄氷のようで、少しでもどちらかが動けば簡単に崩れてしまうほど張り詰めていた。私の呼吸音と、魔獣の呻き声だけが静かに重なる。
身に、緊張と寒さで、眼には見えないこわばりが発生していた。
すると二体の魔獣が突然、木の板に手のひらを置いたかと思えば、翡翠色に赫奕する。瞬時に、脳裏にはあの水分を奪い去る魔法がよぎって、私は真上に跳躍した。
木道を野草が生い茂る。
大剣を横薙ぎに振り払うと。魔獣は即座に反応して後方へと飛び退く。途端に呻き声が激しくなり、どうしてか手を上げてそれ以上は何もしない。
まるで敵意はないと示すかのように。