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episode10 「余は、パレス」

 静謐な空気。

 なにゆえか、一対一の対面となると魔獣は石のように沈黙した。思い返しても、未だ私に攻撃らしい行動はない。

 明らかに、眼前の魔獣には意思というものが感じられる。

 人の言葉を使用するという点なら、半蛇の魔獣と同じだ。しかしカタツムリの魔獣は、明確に兵士のみを葬っている。二人の兵士と私は武装しており、あちらからしたら自分に戦意を持つ者として変わりないはずだ。

 その違いが分からない。

 風使いのように魔獣と意思疎通が可能ならば試みるところだが、水分を抜き取る魔法が口をつぐませる。

 仮説はあれど、明確な対処は黙るくらいだ。例え対話が出来たとしても、「其方」という呼び掛けが滑り込んでくるだけで、私には何も出来なくなる。それが、硬直状態である理由だ。

 だがしかし、魔獣は呼びかける。


「娘」


 という言葉で。

 対して、私はそれに牛のように押し黙って答えない。

 魔獣は困ったように唸った。「ふむ……」と考えあぐねるように頭上を見たが、やがて私のほうへと視線を戻す。


「余は、パレス」


 名乗る。

 名を明かしたということは、コミュニケーションの意思があると取っていいのだろうか。いいや、名乗ったから何だというのだ。それも魔法の一環である可能性は十分にある。

 投げ返す必要はない。

 だが、沈黙していても状況は変わらないというのも事実だ。戦争ならば、突撃すれば一変するだろう。ただ相対しているのは魔獣で、しかも命を一瞬にして奪い去る術を持っている。

 私がまだただのいち兵士であったなら、対話など考えず突っ込んでいただろう。そうなれば少なからず、朝を迎えるか斃れていたに違いない。

 私は帰還しなければならない。

 果たして、どう対処するのが正解なのか。

 応じるべきか否かという回答を、脳内でずっと捏ね繰り回す。色々なことが渦巻き、答えが出せない。

 答える。黙る。ぐるぐると同じことを考える。回答しなければと考えると、しかしその二つが舞い戻ってきて同じところへ至ってしまう。

 だがあやふやな気持ちを押しつぶす。

 私は騎士として事を解決せねば、と決心のほぞを堅めた。償うという道を決めた以上は、眼前の魔獣を対処して帰還しなければならない。

 水分の一切を奪われないようにと願かけに近い身構えをして。


「エメ。エメ・アヴィアージュです」


 私は答えることにした。

 途端に、緊張から胸が張り詰めて来る。

 すぐにでも足元が緑色に輝き、私を干からびさせる植物が生えて来るのではないか、という心持ちがよぎるからだ。


「エメ・アヴィアージュ」


 確かめるように、魔獣が私の名前を口にする。

 とりあえず、あの魔法が行使されることはないらしい。少しだけ肩の荷が下りた気がする。完全に安心しきることは出来ないが、まずは第一歩というところだろうか。


「余に戦意はない。白き騎士よ、ここは去ってはくれまいか」


 首を振る。

 解決せずにそれは出来ない、と。


「そうか、仕方あるまい」


 言った瞬間、その体躯が空間に溶け込んで見えなくなっていく。夕方と同じように姿を消して、そのまま隠遁するつもりなのだろう。

 しかしそれでは困る。

 ここで対話しなければ、解決が遠退いてしまう。


「お待ちください!」


 ここまで大声を出したのは久方ぶりだった。

 撲りつけるような口調で。

 それほどに、無意識に出た叫びだった。


「アヴィアージュ侯に連なる者。白い髪。

 ……謝罪しよう。また明日、ここに来るがいい」


 その言葉と共に、魔獣は霞となって消えた。

 まるで元からいなかったみたいに。潰れた湿原だけが、魔獣がいたという名残。その草達は魔獣が纏っていた粘液にまみれているのがなによりの現実である。

 明日、またここに。

 信用していい言葉なのか。

 だが私は、それを信じて明日を待つしかない。

 アヴィアージュ侯。

 白い髪。

 ただの魔獣ならば出て来ない単語だ。

 白髪はともかく、アヴィアージュ侯という言葉はよほど高貴な存在だという証足りうる。ただ湿原に居るだけの存在なら、ほど遠い単語。それをどうして魔獣が知っているのか。

 特別な魔獣だということに他ならない。

 私はあの魔獣と、もう一度対話しなければならないだろう。あちらから取り付けてくるということは、話す意思があるということだ。それが罠だという可能性もあるが、行かないという選択肢はない。

 初めから意味不明な存在であった。

 戦意のない、巨大なカタツムリの魔獣。白い髪のことを知り、高貴な生まれの言葉遣い。そのうえアヴィアージュの名を理解している。

 脳内を整理しようとすればするほど、散らかっていく。

 明日相対する理由は山ほどあるだろう。

 憂鬱なのは、それらを報告するためにあの拠点に戻らなければならないことである。

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