突然に冷水を掛けられた気持ちだった。
明らかに、人ではないものが言葉を発したのだ。
私はもちろんのこと、目の前の兵士が突然其方という仰々しい言葉遣いを使用するわけがない。改めて周囲を見渡したが、辺りで人の形をしたものは二人しかいなかった。
夜であるため、確認出来なかった可能性はある。だがしかし、目の前にそびえる魔獣の頭と後触覚が、こちらに向かって垂れ下がっていた。
魔獣が喋る例は経験している。
半蛇の魔獣だ。
そのため、それ自体を不思議とは思わない。
ただカタツムリの魔獣が、私たちに語り掛けてきたという事実が慮外だった。魔獣は出現してからずっと動かずにいたため、突如話しかけてくるという行動を起こしたことが分からなかったのだ。魔獣だから、という理由で思考を放棄することも出来るだろう。
ただ、其方。
という言葉は下位の者に使う言葉だ。
主に王族や貴族といった者たちが。その概念を、魔獣が意図して使用したのか。それが少しだけ気になった。
「なんだ、喋ったのか……?」
それに対し、兵士の反応は困惑であった。
恐らく今まで行動を起こさなかった魔獣が、急に話しかけてきたことに混乱しているのだろう。交代制ではあるだろうが、それでも私が来るまでにも監視はされてきたはずだ。当然、言葉を発したとなればその情報は共有される。
つまりこの魔獣は、いま初めて行動を起こしたのだ。
「兵士よ」
再び、自然そのものが語り掛けてくるような声。
兵士は「ハッ……」と驚きの声を呑んだ。途端に彼の肩が痙攣するように動く。
「横暴であるぞ」
ゆっくりと、一音一音聞き入らせようという重々しさだった。ただ少しだけ、水中にいるかのように声がこもっている。
どの行為を指しての言葉なのかは、分からない。
自分に対して頭が高いという意なのか、それとも私に対しての行いなのか。魔獣という存在から、後者である可能性は限りなく低いだろうが。
問われた兵士は口を開けたまま、気圧されたように息を詰まらせていた。たしかにこのような圧倒的な存在感を持つものに問われるというのは、それだけで精神を擦り減らせる。そのうえ相手は魔獣だ。独特の緊張感からか、声が出せなくなっていることは私にも理解出来る。
魔獣もそれを理解したのか、「ふむ」とだけ発した。
不思議な沈黙が流れる。
その間、湿原が揺れ囁く音だけが響く。兵士が言葉を取り戻すまでの時間ではあったが、雪の鳴るような静けさだった。
この魔獣にはコミュニケーションを取る意思がある。それがどうしてかは分からないが、もしかしたら無駄な戦闘を避けられるかもしれない。
そう考えたが、しかし、私が置かれる環境がそれを許さないことを思い出す。下された命令は魔獣の討伐である。私は眼前の魔獣を討伐しなければならない。
ただ今は、どうするのが最良なのか分からない。
果たして、この巨体は切りつけてどうにかなるものなのか。
思考していると、今まで忘れていた呼吸を取り戻すように、兵士が大きく息を吸った。
「横暴だと?」
まだ呼吸が乱れているのか、肺が大袈裟に上下している。
「その者に対する其方の振る舞い、横暴ではあるまいか」
その者、とはここにいる者という意味でなら私だ。
魔獣であるにも関わらず、振る舞いの善し悪しがあるらしい。ただ、あくまでそれは魔獣から見た態度の話だろう。魔獣は、私が虐げられる対象であることを知らない。その理由も、恐らく話したところで理解しないはずだ。
戦争に負けたから。なんて、魔獣からしてみたら下らない理由だろう。
暴力を振るった、という理由ならばそもそもである。魔獣は既に、兵士に対しその力を行使しているのだから。
「こいつに対してか?」
対し、兵士はそう尊大に口外した。
相手が人ではないため、礼節というものを放棄したのだ。
先ほど立ち竦んでいた様子とは別人のように、私の背を蹴って見せる。それにより私はつんのめり、足を前に出すことで転倒は免れたが、頭を覆っていたフードは取れてしまった。
すぐさま戻そうとしたが、しかし兵士によって髪を鷲掴みにされたことによって阻止させる。
頭部にこもるような痛み。
「この国じゃ白髪は虐めていいって決まりだ。だからこいつに振る舞いなんて気にしなくていいんだ」
言って、蹴り飛ばされた。
後頭部に刺すような痛覚があったため、恐らく何本か髪が抜けたのだろう。
「……なるほど」
何かに納得したように、魔獣は呟いた。
呟くと言っても、その重々しい声により、会話に必要な音量は十分に満たしている。
そんな状況下で、兵士は快活な表情をしていた。
自分はこいつよりも上位の存在なのだと。魔獣に意味があるのか分からない、精神的な優位性を得ながら。人を食ったようなふてぶてしい顔を、私へ向けている。
私へは何してもいい。だから、攻撃するならこいつだ。そんな釣り込みなのかもしれない。なにせ相手を押し付けられているのだから。
はやく討伐しろ、という催促である可能性もある。
「そうか、それは」
言った、途端。
頸の部分から二本の触手が形成された。
あれが戦闘態勢ということか。
思いながら、大剣の柄を握る。そうして周囲に銀色の粒子が浮遊しだしたのを確認すると、刀身を後方に構えた。そのまま一振りで触手を切り落とせるように。
「申し訳ない」
意味不明な謝罪の言葉を合図に、弾かれたように触手が伸びてこちらへ襲い掛かる。その謝罪の意味は、考えてもロクに答えも出なそうなので思考はしない。
何も考えず、切り落としていけばいい。
とにかく接触されないことを第一に。考えられるイメージで、最悪なのは拘束されることだ。貫かれるよりも死に直結すると考えていい。
触手が中空を奔り、弩砲めいて降り注ぐ。
その標的は、私ではなく隣の兵士。判明するや直ちに兵士の目の前に大剣を振るった。襲い掛かる二本の触手を瞬時に切り落とす。それを見咎めるや、すぐさま魔獣は触手を引き戻した。
「ご無事ですか」
問いかける。
返事は、しかし返ってこない。
兵士の身は、足元から生い茂った大量の野草に覆われてしまっていた。