眼前に出現したそれは、まさしく山脈というほどの圧迫感を放っていた。私の間近に顕現した、というのもそう感じた要因だろう。だがしかし、少なくとも狼の魔獣を越える巨体を誇っているのは確かである。
その身は形容し難い色で、しいて説明するならば油テカリのような虹色。見ているだけで網膜にダメージを与えそうな彩色に、青銅色の巻貝を背負う。カタツムリ特有の後触覚の先端には、紅玉のような目を保持している。
それが、その魔獣の姿だった。
言葉を失う。
直前に攫われてしまった兵士や、突如動きだした野草のことなど、記憶から風化してしまうほどに。
それほどに、その出現は異様な存在感を示していた。見れば見るほどに、自分という存在がどんどん小さく縮んでいく気すらする。
これを、討伐しろというのか。
山脈を相手取っているかのような、無力感。
立ち向かうという気すら起きず、かといって撤退することも許されていない。
別に撤退し、役立たずと罵られることなど今さらどうでもいいのだ。ただ間違えなく、送り返される。いいからどうにかしろと叱責され、攫われた兵のことも自分が見捨てたと言われるだろう。
動かないと聞いていたが、湿原に危険性がないわけではなかった。魔獣との関係性は不明だが、野草による襲撃。風化した出来事を、糸を手繰り寄せるように思い出す。
何かが湿原から飛び出したわけではなかった。たしかに、野草が蛇のようにその身をくねらせて兵士の足元まで伸びたのだ。それが魔獣の力なのか、それとも湿原自体に敵意があるのか。
考えて、しかし後者の思考は却下する。この湿地帯という魔獣に敵意があるのなら、兵団が呑気にしていられるはずがないのだ。
木の板の上に展開した拠点は転覆し、一人、また一人と緑の海に呑まれていく光景が容易に想像できる。
そうなると可能性としては魔獣の能力となるが、当の本人は出現してから動作らしい動作を全く見せていない。たしかに、魔獣本体は動いていないため、大尉の言ったことは間違えではない。仮に植物を使役出来る魔法ならば、本体が動く必要はないからだ。
ただし、これはあくまで予想である。
これまで動きらしい動きがないというのは真実だろう。もしその超常的な力が既に振るわれていたのなら、兵団は無事ではないはずだ。
だが、目の前でその能力は行使された。今まで動かなかったというなら、今回攻撃されたのは何故なのだろうか。
これまでと違う点としては私の存在だが、まさか自分一人の到来により敵意が生まれたとは考えにくい。私は特別な存在ではない。異物の出現というのなら、そもそも兵団が到着した時点で攻撃されている。
まだ目の前の魔獣は関しては不明な点が多い。
頭の中を整理するために、動かない魔獣というのは都合が良い。しかしそれもここまでのようだ。
湿原から、見えない不明瞭な物音があるのに気付いたからだ。
草の中を何かが這う、そんな音。
そしてそれは、私に向かって一直線に向かってくる。
木道の上というのは、大剣を扱う身にからすると都合が悪い。鞘を地面に突き刺せないからだ。地に立てられなければ、抜刀に時間が掛かる。仕方なく、帯革を外すため留め具に手を掛けた。
しかし触れたところで、そういえばと鍛冶師が言っていたことを思い出す。
『帯革を外さなくても、横にスライドすれば剣を引き抜ける』
横にスライド、とはどういう意味だろうか。
その意味を反芻している余裕はない。
帯革の留め具を外しながら、大剣の柄に握る。
途端に帯革が、まるで粉のように砕け、銀色の微粒となって空に舞い上がった。同時に背中から重みが消失して、鞘も同様の状態になったことを感じ取る。
粒子が、冬の粉雪めいて私の周りをひらひらと舞う。
特別製とはつまりは、柄を握れば帯革と鞘が粒子となって抜刀までの工程をカットしてくれる。そんな性能であった。これが以前、長鎗の彼女の槍に見た御業ということか。
原理は分からないが、恐れ入る。
私はこの場を対処して、鍛冶師のその厚意に対して報いたく思う。
今まさに、これ以上ないほどの都合良い特製。
がさがさと揺れ動く湿原に、左足を前に出しつつ大剣を脇に構える。
しかし警戒に反して、湿原から現れたのは先ほどの兵士であった。水中から浮き上がって来たように、彼は四肢を投げだした状態で、文字通り緑の海から吐き出される。
そして乾いた咽喉に張り付いた声を引き剥がすかのように呟く。ただあまりにも声がかすれていたため、聞き取ることが出来ない。
罠の可能性はある。
例えば、兵を浮き上がらせて私が助けに行ったところを襲撃する、といったような。
だが躊躇している時間はない。
あの様子では救えるものも救えなくなってしまう。
持ってきた数少ない荷物から水筒を取り出すと、急いで兵士の元へ駆け寄る。
息も絶え絶えにしながら何かを言っているが、しかし聞き取れない。周囲を警戒しながら、水筒に入った水を開けっぱなしの口へ注ぎ込む。
やがて虚ろだった目に生気を取り戻していくと、いきなり私の手にある水筒を奪い取る。恐らく足りなかったのか、渇きによる不快感を打ち消すように、水をがぶ飲みしていった。
最後の一滴まで。
帰路の分がなくなってしまったが、仕方がない。
水筒はそのままどこかへ放られる。
兵士は潤った喉で何度か深呼吸をし、そうして長い息をゆっくりと吐き出した。
「愚図が! 死ぬところだった!」
そのまま起き上がると、勢いのまま私の腹部を思い切り蹴りつけた。
重石をつり下げたような腹部の鈍痛。
間髪入れず放たれる頬への拳。
「申し訳ありません」
汚いものでも見るかのように眉間に皺を寄せて、私の事を睨んでいる。
そのとき。
「其方」
山がそのまま語り掛けてきたような、重々しい声が頭上から降り注いだ。