何を言っているのかと、即座に受け入れは出来なかったが、決して嗤う気にはなれなかった。彼の口振りは冗談めいていたが、魔獣には常識外を考慮せねばならないからだ。
たしかに、何か巨大なものに押し潰されたような形跡はある。
しかし、自分のような兵士の言葉を信じる能力がひび割れてしまっている者にとって、その言葉を鵜呑みには出来ない。
すぐそこにいると言うのなら、何故彼らは無事なのだろう。グリフォンや半蛇のような特別な例もあるが、それは風使いに対して縁があるからだ。決して、攻撃性を持たない存在ではない。
そもそも、兵士が指し示した先には、果たして潰された広範囲の野草があるだけだ。私が冗談でも聞くような気でこの話を処理しているのは、つまりはそこである。
見えない。
仮にそんな存在であるならば、私に出来る対処はない。
兵士たちがこうして平気な顔でいられるのは、魔獣には戦意がないからだ。もし敵意があるならば、その不可視という理不尽さをとっくに振るっているはずである。
あくまで、そんな存在がいればの話ではあるが。
「嘘つくな、って顔してんな」
だが兵士は信じていない私の表情を見て感じ取ったのか、そんな風に言葉を投げかけた。
断じて分かっているじゃないか、とは言えない。
「いいえ、決してそのような」
否定するその言葉は、穂先をこちらへ向けることで制止させられた。
突き付けられた槍の切っ先が、私の頬を掠る。
「血ィ出ないんだな。やっぱり通ってないのか、白髪だから」
そんなわけない。
私だって、当然出血する。恐らく奇跡的に、薄皮一枚という斬撃だったのだろう。彼のその発言は、出血させるつもりで私に得物を向けたという意味に他ならない。
だからと言って、別にやり返してやろうという気は沸かないが。
「まあいい。実際見えてないからな、今は」
「……今は?」
思わず、口に出る。
「あぁ、こいつが姿を見せるのは夜から朝方だ。そろそろ日が暮れるからな、見てろ」
その言葉と共に、夕日が水平線に触れた。
陽は落ち、池の水面に朱色のさざ波が閃き始める。淡い黄昏がやって来て、やがて空は夕日の余燼を冷まして磨いた刀色に冴えかかった。
湿原の風景が、落日の蒼ざめた空気に没していく。
夜の到来を予感させると同時に、冷温帯である湿原にひんやりとした風が流れ始める。
そうして、水のような夕闇が満ちてきた。
二人いた兵のうち、無口を貫いていたほうは既に帰ってしまって、夜の中もう一人と共に魔獣の出現を待つ。
私の到着が夕方になってからだったということもあり、夜の訪れはそこまで長い時間ではなかった。ただその間、白髪の私といることに苛立ちがあるのか、しきりにつま先を上下に動かす仕草をしていた。こつこつ、という木の板を叩く音。
気が付くと湿原一面の緑の草から陽炎がのぼって、眼がくるめくように空間が揺れていた。辺りは冷え、兵士の口からは白い息が吐き出されているにも関わらずだ。
夜になり、置かれた何個かのランタンの薄明により鈍く光る湿原。転々と存在する池は、恐らくそこまでの水深ではない。しかし夜の池というのは不意に底なしに深く感じさせ、黒い水が急に重く纏わりついてきて引きずり込まれる、そんな連想をさせる。
その中で、辺り一帯にたちこめていた虚ろな陽炎が、気が付けば雨粒と見紛うほどの大粒の霧となっていた。
何か、巨大な何かを形取ろうとしているような。
「来るぞ」
その声に焦りは感じられない。
霧はやがて大きなひとかたまりの渦となって、中空をうねりだした。途端に濃い粘い湿気が澱む。
明らかに、異質な空気が流れ始めていた。
「来たな。後はお前の仕事だぞ!」
言いながら、兵士は駆け出していた。私一人を置いて、早々に立ち去ろうとしている。暗い空気が辺りを包み、彼が足を進めるたびに身体が闇色に染まっていく。
しかし突然に。
彼が走っている付近の野草が、まるで蛇のようなうごめきをみせたかと思うと、そのまま足に絡みついた。
「な、なんだ!?」
皺がれた声。
そしてのめり、転ぶ。
鎧が木の板に叩きつけられて、鈍い音がした。
そして助けに行こうと走り出す、その前に。兵士は絡みついた野草に引き摺りこまれ、そうして湿原の海へと沈んでいった。
残された喚声が、冷たい空気を引き裂く。
突拍子のない出来事に、しばらく思考が動かなかった。なにせ突然に湿地の草が動き出して、兵士を緑の海へと引きずり込んでしまったのだから。
思考が再編成されたのは、それから霧の渦が白く光り出したからである。脳を沸騰させて泡立てている場合ではなくなったのだ。
何かが現れようとしていた。
今の出来事は魔獣の仕業なのだろうか。
草むらに擬態した蛇のような魔獣が襲ったのか、それとも野草自体が魔獣なのか。どちらにしろ、驚異的な存在ではある。
なにしろどこから襲われるか検討がつかない。
だがしかし。
念頭には置きつつ、今は霧の塊に注意せねばならない。
巨大で動かないと言われている魔獣。
それがいま、形取られていく。
何本もの剣を突き付けられているかのような緊張感。体の中に異様な強張りが満ち溢れて、鳩尾の奥に鈍痛を感じる。神経的な不調和が、湿原一帯にはびこりはじめていく。
いつでも駆けられるよう、つま先に力を入れる。
例え何が現れようとも。
うねる霧が集合し、陽炎が金色に揺らめく。
現れる。
果たしてそれは、巨大なカタツムリであった。