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episode38 「さぁ、もう一つどうぞ」

 交代の者は昼を告げる、歌うたいの声と共に現れた。記憶の中を掻き探すが、やって来た彼は初見である。赤茶の波打つ豊かな髪を、項のところでまとめているその者。内側から肉を削り取られたように凹んだ頬に、何か遠くの物を見つめているような、少しぼんやりとした目つき。手には装飾の施された杖が握られていることから、恐らくは杖術を用いるのだろうと推測出来る。魔法使いとも取れるが、ロラや風使いの彼女を見るにどうやら魔法に杖は必要ないらしい。

 杖術の彼は姿勢が悪く、獣みたく背中を丸めていた。


「お初にお目にかかります。騎士のエメ・アヴィアージュと申します」


 あまり言葉を交わしたくないのか、頭を軽く下げ、それきりだ。どちらにせよ、何も言ってくれないのは不便である。

 そう思っていると、彼はおもむろに杖で何かを地面に刻み始めた。杖を走らせるごとに鳴る、がりがりという音。地面の固さから、もし持ち手が木製であったら刻むのは難しいだろう。そうして地面に書かれたのは、果たして「シメオン」という文字であった。親指を立てて自分を指し示していることから、恐らくは自分の名前だ。


「シメオン、様」


 確認するように、言う。対して彼は一度だけ点頭し、今刻んだばかりの自分の名前を足で消した。そしてヤグラの骨組みに体を投げつけるように腰かける。

 それきり、杖術の彼は沈黙してしまった。

 改めて彼を見てみると、茶色い外套で覆い隠してはいるがその身はだいぶ痩せ細っている。その身で杖を揮うとなると、威力には些か疑問が浮かぶ。

 兵士時代のことを思い出すに、杖術を用いる者に会うのは稀だ。私も訓練の際に教官が使用しているのを見たことがあるだけで、実際の戦争で対面したことはない。その気になれば出来るのだろうが、杖術は人を殺すことに向いているわけではない。殺さずに制圧することには長けていそうだが、戦場でそれが必要になる場面は記憶にあるかぎりなかった。

 杖術の彼も、そういったつもりでいるだろう。一人でも捕らえることが出来れば、尋問なり何なりして根城の場所を吐かせる。不殺を意識しているということはそういうことだ。略奪が目的なのか、或いはただの偵察なのかは分からないが、村に脅威を与えている以上、例え命のやり取りが発生したところで何も問題はあるまい。

 そう思考を終えると、沈黙はより重くなったように感じた。お互いに石のように無言のまま、大して動きもせず。時折どこかにあるらしい畑を見に行く村人と、その護衛の自警団を見送って。ただ警戒態勢からか、今日はそれ以外の者が出て行く様子はない。村の外に用がある者たちは出て行きたいだろうが、賢明な判断である。そうして時間はもの惜し気に一滴ずつしたたっていく。

 杖術の彼がやって来て少し経った頃、村長の奥様がやって来た。両手にバスケットを抱えており、特有の匂いがする。恐らくはパンだろう。小麦は村で作られたものだろうか、それとも商人から買ったものか。カルムについて調べたわけではないため、小麦を作っているかどうかは分からない。


「騎士様、シメオン君。お疲れ様」


 言いながら、バスケットをこちらに渡す。杖術の彼が軽く頭を下げながらそれを受け取ると、そのまま掛かっているふきんを取り除く。

 ハムとサラダのサンドイッチ。私の記憶によればそんな料理名だったと思う。もう少しちゃんとした名前があると思うが、何せそんな洒落たもの、食べたことがないのだ。そもそもパン自体、乾いてぱさぱさになったものしか口にしたことがない。そのため、これがサンドイッチという食べ物だということしか知らない。それも、上官が食べていたものを兵士がそう呼んでいたから知っていた、という理由だが。

 そして振り返る。

 そういえば、最後に食事を摂ったのはいつだったか。少なくとも、カルムに来てきちんと食べた記憶はない。簡易食料をまともな食事と換算してもよいなら、比較的近い日に摂ったと言える。そもそもこうして奥様が持ってきたからといって別に私が食べられるかといえば別の問題だ。戦場で補給が私だけなかった記憶もある。隣に杖術の彼がいるのだ、そちらだけに差し入れに来た可能性は否定できない。

 従ってサンドイッチは四つあるが、何か言われるまでは手を出さないほうが賢明というもの。それにもしかしたら、痩躯のわりに彼は大食漢かもしれない。

 そう思っていると、杖術の彼がサンドイッチを一つ手に取ってそのまま頬張った。そして口を動かしながら、食べかけのサンドイッチをじっと見つめたと思えば、奥様に向けて親指を立てる仕草を見せる。

 それが何の意味なのか、私は初め分からなかった。しかし、対して奥様が「よかった」と言いながら力の抜けたような柔らかな笑顔を見せたので、それが称賛なのだと理解した。

 揉むように下顎を動かし、飲み込む。それを繰り返すと杖術の彼は早々に一つ食べ終えた。そしてすぐに二つ目を手に取ると、バスケットをこちらに突き付けてくる。

 見ていたのを乞うているように感じられたのか、そういうつもりではなかったのだが。

それを受け取り、暫し立ち尽くす。果たして、口を付けていいものなのか。


「召し上がらないのですか、騎士様」


 奥様の目に軽い疑いの雲がかかる。それは本気なのか、しばらく見つめてしまうほど妙な気持ちだった。実はからかっていて、杖術の彼が急にこのバスケットを取り上げるのではないだろうか。そんな訝し気な感情。

 しかし奥様の真面目な眼差し、さらに杖術の彼の胡散臭そうに私を見つめている様に屈せざるを得なかった。別に毒入りの食べ物を食べろと言われているわけではない。目の前で杖術の彼がそれを食しているのだ。しかしどうしてか、説明しづらい後ろめたさがあった。


「……頂きます」


 一つ、手に取る。

 持っただけで分かる、乾いていないちゃんとしたパン。今まで見たことしかない。

 一口、食べる。

 じわりと湧き出てくる唾液の温かさに、背中が曲がった。噛みしめると、歯にしがみつくようなしっとりとした弾力があり、挟まれているサラダがさくさくする。ほどよく、硬くて柔らかい。

 ゆっくり噛むと、口の中に充実感が広がっていく。

 ふと目線を上げると、奥様が上瞼をひきつらして私を見ていた。


「……申し訳ございません、ちゃんとしたパンは食べたことがなく。ですが、……はい。美味しい、と思います」


 どう感想を言えばいいのか。

 食べて充実感を得られる食べ物など初めて口にしたため、そう伝えるしかなかった。ただ、口に入れたあと味わうなどついぞ経験のないことだ。


「そうですか、そうですか!」


 手のひらを叩いて、奥様が高い声を上げた。

 そのまま、その手に持ったサンドイッチを口に収める。


「さぁ、もう一つどうぞ」


 言われるがまま、残された最後のサンドイッチを手に取った。そして躊躇いもせず、口に運ぶ。奥様にそうしてと催促されたからとも思うし、許可されたから手が動いたとも言える。

 どうしてすぐさま手が伸びたかは、つまりはよく分からない。

 そう完結して、奥様にバスケットを返す。草むらを踏みしめる音がしたのはそんなときだった。

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