「あれ、あたし……」
状況が呑み込めないという風に上半身を持ち上げる。まだ少し意識が混濁しているのか、こめかみ辺りを押さえて一つ息を吐く。
「メリサンドと話してて、急に眠くなって、それから……」
確認するように、ぽつぽつと独り言ちる。恐らくは魔獣に眠らされる手前の記憶だろう。話していて、という点から、少なからず遠い存在ではなかったことが窺える。
「アセナ……」
池の中央で、顔だけを水面に出した状態の魔獣が誰かの名を呼ぶ。それが風使いの名前であることは想像に難しくない。
「メリサンド。ねえ、どういうことなの。どうしてこんなことをしてしまったの」
「それは、その。私」
一目惚れしたから。魔獣はその話を切り出すのに、一種の辛さを感じているようだった。伏し目になり、いじらしく両手で鼻を覆う。その仕草は完全に人間の女性で、肌が水色でなければまさしく乙女そのものといっても差し支えないほどだ。先ほど水面下で私と戦っていたあの魔獣とは、明らかに別の何かだった。
「グリフォンに水をやるためにこの池に降り立ったあのとき、私はあなたに一目惚れしてしまった。だから」
だから幽閉してしまった。
これは自分のものだと。巣穴に持ち変える野生動物みたいに。
「初めて話しかけてくれたあのときから、何度帰らないでと思ったことか。でももうさよなら。アセナは私を赦さないだろうし、こうして取り返しに来る人間がいるんだから」
言って、私へとちらりと刺すような視線。それにつられて風使いの目が私へ注がれるのを感じる。その雨滴めいた視線からはどことなく窮屈さを覚え、そこで私はフードを被っていないことにたどり着いた。
「白髪にその落ちてる大剣……あなた、亡霊ね。フリストレールの白い亡霊」
風使いは一瞬だけ目を皿のようにして驚いたあと、しかし即座に表情を元に戻してそう言った。まさか戦地で一瞬見ただけの相手が私のことを知っているとは思わず、むしろこちらの心の内側に小さな波が立つ。ただ、その呼び名に覚えはない。私が知っているのは亡霊というあだ名だけだ。
「あなた確か兵士でしょ、こんな辺境で何してるの」
最もな疑問だ。
「今はカルム村の騎士をしております。その、アセナ様が商人としてお立ち寄り頂いている……」
それに、風使いは「あぁ」とだけ漏らす。
「それで商店のご主人がアセナ様のことを最近見ないのでどうしたのだろうと心配なさっていましたので、私が出向いた次第です」
「商店の主人……あぁ、あの声の大きい人ね」
村外の者からもそう覚えられていることから、どうやら店主は基本的にはそういう者だと認識されるらしい。たしかに、あの大声は風貌や性格、どの要素よりも記憶に残る特徴だ。
想定していたよりも遥かに柔和な態度で面を食らう。風使いはフリストレールの出身ではないため、たしかに白髪に対する苛つきがないことは分かる。しかし、彼女は敗戦者だ。髪色など関係なしに口撃されると予想していたため、それがとても意外だった。
「私からもよろしいでしょうか」
「うん?」
同意するように風使いは頷く。
「あなたこそどうして商人を? 以前お見かけした際は」
戦場にいらしたのに。
そう、言う前に。
「待って」と中途から奪う。
「その時代の記憶は他人から言われたくはないから言わないで。でも、そうね。あの戦争のあと、あたしは捕虜としてフリストレールに連れて来られて倍近く年上の将軍に嫁がされたんだけど、これが良い人でね」
快活に言う。敗戦の禍根も取り除かれるくらいの人だったのだろう。捕虜として勝国の将軍の妻にさせられるなど、国からすれば戦利品の一部でしかない。それをこうも明るく話せるのだ。本当に善良な者のもとに嫁いだか、或いはよほどの胆力の持ち主である。
「で、亡くなった。清々したなんて思ってないよ、それくらい良い人だったからね。涙だって流した。それで自由に生きてほしい、っていうのがあの人の言葉だったから、こうして好きに飛び回ってるの。グリフォンと仲良くなれたのは完全に幸運だったけど」
聞いて、ここ何年か前に亡くなった将軍を思い返す。しかし指揮官が変わるなど日常茶飯事であり、その要因が戦死であることも珍しいことではない。当然下の者であった私に、妻を娶ったなどという情報が入るわけもなく。なので何人か顔を浮かべたのち、考えるのをやめた。
「だからね、メリサンド」
急に話題を魔獣へと転じる。会話を打ち切られたこと自体は別にいい。私が興味本位で聞いたことであり、それ以上喋ることがあるわけではない。ただ、今一度魔獣と会話をしようとすることが意外だった。相手は自分を幽閉していた者であり、少なくとも私ならこれ以上会話をすることはしない。
当の魔獣は、自分に話が転じるなどと思っていなかったのだろう。「えっ」と控えめながらも素っ頓狂な声を漏らす。
「お喋りしてたときも楽しかったし、一目惚れしたって言葉も嫌じゃない。でも、幽閉とかそういうのはダメ。あの人に顔向け出来ないから」
魔獣は答えない。今までの自分への行いへの非難に、沈黙を以て反省を示しているようだった。弓弦を切って離したように、言葉を消して俯いている。
「だから、ここから。友達から始めよう」
それが寛容なのか、はたまた愚行なのかは私には判断出来ない。批判する言葉はいくつもある。自分を幽閉していた者を許すという行為。魔獣に対して友人になろうという案。そもそも魔獣は女性を模しており、風使いも女性である。それを受け止めることが風使いという人間にとって正しいことなのか。
私ならば、迷わず殺してしまうだろう。ただ今までの言葉から、魔獣の風使いへの言葉が嘘には思えない。そしてその気持ちを、風使いも払い除けることはしない。ならばその心持ちを無関係の私が否定することは出来ないし、いまこの場に私は不要に思える。もしそれが間違いで、今度こそ魔獣が風使いを取り殺してしまったとしたら。そのときは害を為す存在として私が殺せばいい。
そうして、一応ではあるが店主の依頼を達成したこととなった私は、水に入り浮いている自分の装備を素早く回収すると、速やかにその場を離れることにした。
いつの間にか陽は沈み、薄闇が立ち込めている。傷痕のような形をした月が、消えてしまいそうな白さで、地上を薄く照らす。その中を、木々に付けて来た傷を辿りながら私は帰路へついた。