「何者、ですか」
足は枷でも嵌められたかのように動かず、私をその場所に拘束するに十分な力だった。腕の色から推測するに、どう考えても魔獣の類であることに違いない。
「お前こそ誰だ。私のものを奪いに来たのか」
分からない。
分からないが、相手は余程大事なものを抱えているらしい。
腕はそのまま私を引きずり込もうともう片方の腕も出して、引っ張ってきた。足先が、まるで沼に嵌っていくかのように、緑の領域に沈んでいく。自分の領域に引きずり込んで、私を溺死させるつもりだろう。魔獣の領域に引きずり込まれるなど、何があるか分かったものではない。
胸を炙るような焦燥感が私を襲う。腕は全く引き剥がすことが出来ず、ずぶずぶとこの身が沈んでいき、自分の視界が狭まっていくのが分かる。心臓の鼓動が早鐘を打ち始め、えも言われぬ不安が私を締め付けてきた。
早く対処しろ。そう頭の中に囁き声が充満するが、腕の拘束は全く緩まない。思考が渦巻いて、行うべき抵抗を体に伝達することが出来ない。焦燥感の洪水と共に、体は緑の領域へと飲み込まれていく。当然、要する時間はわずかに過ぎずその引力によって私の体は十秒と持たず飲み込まれた。
お前は村を守るという任すらこなせないのか、役立たずめ。
そんな誰かの罵倒を抱きながら。
しかし無念さとは裏腹に、水面下は一面緑色の世界で、水中に似た感覚を持ちながら呼吸が可能であった。水深は先ほどの泉と同じ程度だろうか、そこまで深いわけではない。緑色に囲まれたその世界は、まさしく異界と呼ぶに相応しい空間である。呼吸出来ることから推測するに、恐らくは水面下に引きずり込むこと自体に意味があるのだろう。
視界を下に向けると、両腕の主の姿がそこにはあった。
金色の長い髪に水色の肌を持った、人離れしたその女性。涼しく刺すような綺麗さに、一枚布を体に巻き付けてゆらゆらと漂わせる。特筆すべきは背中に生えた翼に加え、下半身の蛇のような体だろう。
その携えた蝙蝠めいた翼と尾、それだけで彼女を魔獣という脅威たらしめていた。
「彼女を連れ戻しにきたんだろう。許さん、殺す」
分からない、まるで別の国の言語のような言い分。察するに、どうやら魔獣の大事なものというのは女性らしい。よほど美しい風貌なのか、あるいは強力な魔力を擁しているのか。その魔獣の大事なものが私に関係のある女性であるかは不明だが、ともかく魔獣は私に殺意を向けた。それだけで、この場面において何をすべきかは理解出来る。
これは生存意思だ。だから殺す。
大剣は水面に置いてきてしまったが、問題ない。戦場で自分の武器が手元から離れてしまうことは珍しいことではない。その場面を想定して、私は自分に訓練されている。
ただ、ここは魔獣の領域だ。敵は自由自在に移動出来るが、私に対しては水中であるかのような抵抗が存在する。どうしても思うような速度は出ない。
呼吸が出来る理由だけが不明だった。水中に似た領域に引きずり込めるのなら、私という外敵に呼吸をさせる必要などないのに。それがそもそも水中に生きる魔獣ではないのか、それとも別に理由があるのかは分からない。
一番の懸念は、やはり魔法だ。魔法は主に魔法使いが行使する不可思議だが、魔的な存在である魔獣が魔法を使えないという法則はない。そもそもこの領域だって恐らくは魔法の行使だろう。なので、念のため呼吸が出来なくなるという心配は頭の中に残しておく。
そう思考している間に、体は水底まで引きずり込まれていた。何もない、ただ緑色の空間。
そこに、想像の範囲外である見知った顔がある。
「……あなたは」
思わず、言葉にして出してしまう。
背中まである、緑色の髪。背丈は少し伸びただろうか。白いローブを来た、その女性は。数年前の戦場、確かにこの目で見た風の魔法使いであった。
頭部を思いっきり殴られたみたいに、一瞬、目の前が真っ白になる。予想もしなかった人物が、透明の膜状の中に眠らされていた。ぎゅうぎゅうに詰まったバックパックと共に膜内をただ意味もなく漂っている。
「やはり彼女を取り戻しにきた人間か。渡さんぞ」
魔獣が大事に抱えているもの。それが目にしたことのある人物だった。私が一方的に目にしたことのあるだけの女性ではある。だがロラの魔法を見てその存在は思い起こかれて、こうして魔獣に囚われているのだ。
眩暈がする。
それほどの衝撃だった。
「何故、彼女を」
くらくらと視界が揺れる中、絞った声がそれだった。
「何故、だと。そんなの、彼女がとても綺麗だと思ったからだ」
目と鼻の先。眼前にいる魔獣は、そう答えた。
その言葉に、どうしてか歌うたいの姿を思い出してしまう。一枚の絵画めいて、恐らくは本物よりも美しく。カルムの住民の中で一番会話を交わしたのは、間違えなくロラであるはずなのに。分からない。分からないため、それは初めて見た歌唱している姿がとても美しかったから、という理由付けをして思考を終わらせる。
確かに、風使いの顔つきはとても端正だ。少し幼さの残るその相貌に魅力を感じる、そんな者もたくさんいるだろう。
だが魔獣が、人を綺麗だと言って攫うことなどあるのか。顔つきならば、いくらでも美女になれるだろう魔的なその存在が独占するほど。
「一目惚れ、というやつだろうな。あぁ、嫌になる。この私が抗えない、それくらい彼女が欲しいと思った!」
そう叫ぶと、魔獣は私の元を離れ膜の元へ素早く移動する。そして目覚めない風使いを膜越しに撫でると、まるで本物の恋人であるかのように愛おしそうに見つめた。
「お前の反応を見るに彼女の顔見知りだろう? あぁ憎い。私は少し話しただけだというのに」
否。
私はそんな者ではない。
少し話したと言うなら、それ以下だ。
魔獣という脅威がここに居続けてくれるなら、本来ならば私にはその時点で関係のないことだろう。
だが今は、その大事なものを解放しなければならない理由があるのだ。例えそれが騎士という責務の範囲外だろうと。それが店主との契約なのだから。
「あのグリフォンも、解放してやったというのにずっとこの森をうろちょろと。憎い。あぁ憎い」
頭上で、ずっと水面を見つめているグリフォンの姿があった。その下の景色は見えないというのに。
「そう、ですか。ですが関係のないことです。私にはその彼女を救わなければならない義務がある」