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episode16 魔獣

 巨狼は私の首元しか見ていなかった。喰らい付こうと前のめりになったと同時、隠し持った最後の短刀、それを腹部に突き刺す。悲鳴が空気を引き裂く。そして痛みにより体を仰け反らしたのを見て、腹部を蹴り上げることで逃れることに成功する。

 怯んだとはいえ、手元に武器がない以上はすぐにトドメはさせない。もう1匹もすぐそこまでやって来ていた。体当たりされたことで、大剣から少し離れてしまっている。再び手に取るには、目の前にいる手負いの巨狼を越えなければならない。だが眼前から脅威が迫っている以上、悩んでいる余裕はなかった。

 ばねのように、膝を伸ばして跳び上がる。

 跳躍先は痛みに食いしばる迫りくる巨狼。それを踏み台にして、己が武器の元へと躍る。体当たりされて手放してしまったため、剣は地に伏せっていた。拾い上げ、そして構える時間はない。迫りくる巨狼目掛け、柄頭を蹴り飛ばす。

 咄嗟に出た行動だった。今まで剣を蹴って飛ばすなどやったことはなく、またやってみようだなんて思いもしなかった。もう何度受けたか分からない寄せによる圧力に、全うに斬るという攻撃では間に合わないと知覚し、躰が下した判断。考えるよりも先に体が動いた、自分を納得させるとしたらそのような言葉を用いるしかない。自分でも分からないことは説明出来ないからだ。

 分からないならば放棄する他ない。

 蹴り飛ばした大剣が、バリスタめいて巨狼の前胸部へと突き刺さる。前胸部を突くことはその皮下にある心臓を貫くことに直結しており、棒杭でも倒れるように草原の上にどさりと倒れ込む。だが、巨狼はなおも起き上がろうとした。私に報いるという意思、それだけで巨狼はその身を動かしている。

 だが、違う。

 初めに襲い掛かってきたのは狼たちのほうだ。村にとって脅威ではあるものの、やってこなければ駆除することはなかった。私はこの村を護らねばならないため、彼らを殺したに過ぎない。

 起き上がろうとする巨狼を蹴り飛ばし、心臓を貫いた大剣を引き抜く。傷口は開放され、血がこんこんと湧き出てきた。草たちが赤く塗り潰される。血の海は巨狼の周囲に涯しもなく広がり、やがてその身をゆっくりと沈めていった。

 残り二匹。

 内一匹はもう私へ飛び掛かっていた。もう対応が追い付かないと思えるほど目の前まで。眼を火のように光らし、私を食い散らそうと大口を開けて襲い掛かる。改めて、恐ろしい大口だ。私の腕丸ごと入れて余りあるほどの長さに、成人男性の頭から胴体までを丸ごと飲み込まんとする大きさ。よくもまあ、賜ったこの鎧は強力な咬合に耐えたと思う。

 大口は私の頭を的確に捉えて迫っていた。ここまで詰められては、私に出来ることは精々体を捩じり生存を優先することくらいだ。身体の一部を失う程度は覚悟しなければと、そう思った。

 思った、そのときに。濡れた草たちに足を滑らせて、景色が転がった。急に降りしきる雨を全身に受けたかと思えば、視界が巨狼から天へと移動し、尻に衝撃があった。

 巨狼が私の頭上を飛び越えて行ったと知覚したのは、びしゃりと濡れた草へ着地した音がしたからだ。五体満足で尻餅をついたのだとようやく理解し、素早く立ち上がる。起きるために地に着いた手は血に塗れていた。生温かく、ぬめり気のある馴染みのある感触。

 体制を立て直し巨狼へ視線を向け直すと、あちらも体を切り返したところだった。ちょうど、睨み合う形となる。壁でも射通しそうな鋭い眼光。不用意に距離を詰めてみるがいい、即座に噛み殺してやろう。その眼は確かに言っていた。

 しかし、手負いとはいえもう一匹も迫ってきている。状況を打破するには、目の前の巨狼を斃す他ない。一対一となれば、状況は多少回復する。夜になってから不利な状況が続いているが、ようやく好転する流れが来たのだと。そのためにも、数的な不利要素は払いたい。

 点滴の珠を草原に残して砕けて行く雨の糸。水の筋が風に煽られて、千切れたり撓ったりするのが、はっきりと眼に見える。

 大剣を握ると、巨狼は既に跳躍していた。抑えきれない怨嗟の情が燃えるように瞳を火照らせて。今度こそ、私の躯を飲み込んでやろうと大口を開いて飛び込んでくる。

 赤く、鋭利な牙が何本も生えた暴力の門。怒涛のように襲い来る大口の、その真ん中へと大剣を振りぬく。口から尾の先まで、真っ二つに両断されたた体躯は、朽ち木が折れるようにばたりと横倒しになり、そして動かなくなった。

 紅に染まる視界の中に、もうやって来ているであろう手負いの巨狼を探す。目の前が赤に染まっているこのときに乗じて攻撃されたら、それこそ対応出来るか分からない。

 しかし私の焦りに反して、狼はやって来なかった。頭を振ってこびりついた血液をふるい落とした先に見たのは。あろうことか私のことなど意に介さず素通りし、暗闇の中へ消えていく姿だった。

 狼は他と比べて諦めのいい獣である。私を狩れないと判断したのか、生きたいという本能から逃亡を図ったのだ。追撃する必要はない。害獣の駆除は騎士の役目の一つではあるが、相手は一匹だ。逃げるというのならわざわざ駆除することもない。それにこの雨の中逃げる獣を追うというのは、体力を大いに使う。その際に別の何かが来て守れなかったら、責任問題はこの場所を請け負った私に発生する。

 私に責任を取る力はない。この命を代償としようが、カルム村と私の命では天秤にかけるまでもないだろう。

 それよりも、目の前に横たわる巨狼を処理するほうが先決だ。このまま放置せいては、それこそ迷惑になる。害虫は寄って来るだろうし、血によって新たな害獣を呼び寄せる可能性も捨てきれない。毛や肉はどのようにするのがカルムの習わしなのだろうか。戦時中、補給をするため立ち寄った村に対して狩った狼を差し出した。だがその村では犬類を食べない習慣だと断られたと記憶している。そのため、カルムでもそういった風習があるかもしれない。従って処理だけ行い、朝来るという者に聞くこととしよう。

 改めて、転々と斃れている狼を見る。雨で濡れているせいで、余計にもの淋しく見えた。奪いたくて奪った命であるわけではない。ただそうしなければならなかっただけ。殺す必要があるなら殺す。しかし目の前の死体が、得体の知れない寂寞と哀愁とをまるで颱風のように感じさせる。今まで散々死体など見てきたはずであるにも関わらず。

 その湧きあがった感情はどうしてか分からないため、放棄した。

 そのときに。

 遠い雷のような地響きをさせ、何かが近づいて来ている気配を感じた。この期に及んで、巨大な何かが私の目の前にやって来ようとしている。

 倦怠疲労により、体がしびれるような物憂さを覚えた。それでも、来るというのならばこの場所で立ちはだかるしかない。騎士という任務を全うする、それだけが今の私の価値なのだから。

 唐突に、狼の断末魔が響き渡った。先ほどの巨狼が、迫り来る何かに捕食された音。呻き声と共に骨を噛み砕く音が、それを証明している。

 魔獣。

 これは魔獣だ。

 それを「魔」と称するに至るのは道理であろう。歩くたびに地鳴りのする生物など、通常種と言うにはあまりに無理がある。通常の生物から超越した存在、人に対しての魔法使いと同様の存在。それがいま、暗雲と共にやって来ようとしている。

 途端、空気が重くなった。まるで海底の奥深くに沈んでいくかのような、そんな風。ただでさえ夜なのに、雨という視界の最低さ。その中でただただ、山岳のような巨大な闇の輪郭だけが近づいて来ている。私は今から何と相対することになるのだろう。魔法を扱えるわけでもない私が、果たして魔獣という常識外の存在を斃すことは可能なのか。

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