その前に。
拳が全力で放たれるより前に、疾走を開始した。攻撃を躱してその隙を狙う。当初はその方針でいたが、そもそも全力で拳を放つに至らせなければいいのではないかと。彼の全力の一撃は大振りである。振るうにはどうしても時間を要し、且つ軌道も読みやすい。ならこちらから距離を詰めて拳を放つタイミングも縛ることが出来れば、優位性を持てるはずだ。
「何ぃ……?」
実際に私から動いたことに効果はあった。彼の中では自分から攻め入ることを想定していただろう。その程度で狼狽えるわけではないだろうが、腰を据えた全力の一撃。それを以て攻め入る前に私から距離を詰められてしまったことで、それに対応せざるを得なくなってしまった。
反撃の一撃は分かりやすい顔面への拳だった。カウンターとしては定番の部位。相手の勢いを利用するに当たって、顔面への一撃ほど強力な返しはない。返された威力によっては、戦闘不能にすら出来る。間違えなく、彼の腕力で顔へカウンターが決まれば私は気を失うだろう。
ただ、それは成功していればの話だ。カウンターされる部位は分かりきっている。私の顔へ放たれた左拳は、その威力を発揮する前に潰させてもらう。
「なんだと!?」
私が痛みに対して鈍いことに加え、攻撃される部位が分かりきっていたからこそ出来たことだった。その表情からは明らかに混乱が見え、予想の範囲外だったことが窺える。ざわざわと林が揺れるように雑多な言葉が周囲に渦巻いた。
放たれた拳を、そのまま鷲掴みにして受け止める。掌から感じられるひりつきがその代償。ざわめくほど特別なことをしたわけではない。できることを行った、ただそれだけだ。
拳を掴むことで一瞬だけ生じた隙を見計らい、彼の体に背負うような形で懐に潜り込むと、投げ技でそのまま地面に叩きつけた。抵抗がなかったからこそ、出来た投げである。大木が折れたかのような地鳴り。地面が石畳なことも要因だろう。叩きつけられた彼はその痛みで悶え、今度こそ致命的な隙を生んだ。ただ、仰向けになっているとはいえ油断はできない。怯んでいる間に、彼の両肘を押さえる。もしその腕で掴まれたならば、私の腕など簡単に折られてしまうだろう。そうなる前に、先に丸太のようなその腕は封じさせてもらう。
「あのリアムが、簡単に抑え込まれて……!」
村人の誰かがそう漏らした。
簡単ではない。誰が言ったか分からないが、後で訂正してもらおう。
そのときには既に怯みなどなく、並外れた腕力による抵抗があった。少しでも気を抜けば抑えつけている私の手をはね除けて、押し返さんと狙っている。そうなる前に。防ぐ手段のない急所、顎の先端。その部位へ、膝蹴りを叩き込んだ。
硬い、石でも打ったかのような感触だった。顎であれば体格など関係ない。巨躯の彼はうめき声を上げたあと、顎の先端を打たれたことにより脳震盪を起こし意識を失った。
抵抗が完全に失われたことを確認して、立ち上がる。素手での戦闘ということと相手の体格もあり、厳しい戦いだったと思う。まだまだ、精進しなければならない。捨てられないように。捨てられてしまったら、どうしたらいいか分からないから。
雑然たる声が起きては沈む。
「なんの騒ぎだ、これは」
それと同時に、湖に広がる波紋のように静謐な声が響く。雑多なざわめきの中で、何故か妙に際立つ声だった。
「村長」
村人の誰かが、声の主をそう呼んだ。人垣が割れて、村長と呼ばれた者への道が出来る。私と、巨躯の彼の元へと行く道だ。
「騎士殿」
村長は私の目の前へとやって来ると、真っ直ぐにこちらを見据えて言った。首筋の皺を見るに、四十代辺りの男性だろうか。短く揃えられた赤茶の髪に、無闇に触れるものなら切れてしまいそうな鋭利な眼差し。自衛のためか、腰に剣を差していた。
「お初にお目に掛かります、村長様」
一礼する。
対して、村長は「こちらこそ」そう言って頷いた。
「出迎えられず申し訳ない。それで、これは一体どういう経緯でこうなったんだい。うちの者が倒れてるんだが」
果たしてどう説明すべきだろうか。確かにきっかけは射手の彼なのだが、事を起こしたのは私だ。説明のしようによっては本当に追い返されかねない。
「騒動を起こしてしまったことをお許しください。アレクシという青年が言うには、今まで自分たちが守ってきたのだから私は信用出来ないと」
「あぁ……」
その顔には苦い笑みが凝っていた。反応を見る限り、思い当たる節があるということだろうか。
「オレリア」
辺りを見渡しながら、奥様の名前を呼ぶ。
「はい、騎士様が言っていることは本当です」
私の背後から奥様は現れた。その顔つきはたじろいでいた先ほどと違い、真っ直ぐに村長の顔を見据えている。
「なるほどねぇ」
やれやれという風に頭をかき、村長は溜息をついた。
「それで、力を見せるためにこうなったと」
「そのとおりです」
理解が早くて助かる。
「だがな騎士殿、今後こういうのはなしで頼む。一応そういう理由で来たんだろ」
「以後気をつけます」
射手の彼が何も言わなければ決闘に発展することはなかったのだが、今さらそんなことを考えても仕方がない。村長が言うとおり、現在この腕はこの村を守護するために振るわなければならない。それが任務であり、全う出来なければ私に価値はないのだから。
「俺からも自警団には改めて言っておくがね。おう、いつまで伸びてんだお前」
言って、巨躯の彼の横で膝を折ると額をこつこつと叩いた。目が開く。そうして無理矢理起こされると、巨躯の彼はゆっくりと上半身を持ち上げ、顔をしかめた。目の前に私がいることが原因なのだろうが、不満そうに黙り込む。堅く結ばれた口元に、納得がいかないという思いが感じられる。
「おうおう、見たところ完全に伸されたみてぇだが」
「……村長」
「別にお前らが要らなくなったわけじゃねぇ。うだうだ言ってねぇで認めろ」
相変わらず石のように口をつぐんでしまっている。そうして何秒か沈黙した後、ゆっくりとした動作で立ち去ってしまった。
「見た目と違って、頭まで筋肉で出来てる奴じゃねぇ。次会うときには納得してるだろうさ」
そういうものなのだろうか。自分には分からない。ただ、村長がそう言うのならそうなのだろう。
それよりも、村長が私の顔をじっと見つめていることのほうが気になって仕方がない。私の顔の造りが気にくわないのか、それとも白髪が珍しいから凝視しているのか。表情は不快なときのそれではないようだが、髪色以外は珍しくもないはずの私を眺めていた。