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episode2 「そうやって、後ろから罵倒するだけなら」

 白いシャツに茶色のロングベスト、短く切りそろえられた茶髪に無精ひげを生やしたその男。フリストレールの市民だろうか、彼女の髪を見るなり露骨に顔を歪めた。白髪はこの国はおいて侮蔑の対象である。

 その昔、フリストレールという国はとある北国に歴史的敗戦をした。そこから建て直し今に至るわけだが、その北国の民というのが銀色の髪を持っていたのである。かくして白銀は嫌悪され、国内においてその髪色は排他された。別にこの歴史のことを学んだわけではない。ただ私が差別される理由として学んだだけ。私がこの国にいられるのは孤児だからであり、それでも敵意は変わらずに向けられてきた。もはや私にはただの雑音に等しいが、彼女はどうだろう。

 焦点を合わせるように何度か瞬きをする。


「幽霊?」


 分からないという風に彼女は聞き返した。自分のことを幽霊だと言ってくる赤の他人に、思考の針が狂わされているのだろう。幽霊だと誹ってくるということは、まだ列車は首都に近い位置を走っている。ということは、彼女は首都から一つ先の駅から乗ってきたということか。


「はっ、観光客か?」


 そう毒の針を含ませながら、彼女の長い髪を掴んだ。


「……随分と、この国の歓迎は野蛮なのね」


 その口調には、明らかに不愉快そうな心持ちが滲んでいた。


「いいか、その髪色をこの国で見せるな。無事に帰りたいのならな!」


 短刀を一突きするような大胆に物言いと共に、自分の目の前に顔を引き寄せるためぐっと力を籠める。が、彼女の頭部は動かない。それどころか、その表情には冷たい落ち着きが広がりっており涼しげですらあった。

 まるで「何かしたか」 そう言わんばかりに。


「動かない……?」


 男は鳥のように目を見開いた。全く予想していなかったという面もち。私も心の内側に小さな波が立つ。淑女と思っていた彼女が、まさか男に引っ張られてなお動かない身体の持ち主だとは。

 行き場のない苛立ちに、男は手の甲に筋が出来るほど拳を作っていた。


「お待ちください。彼女は観光の方です、それ以上は……!」


 彼女が格式ある家の出身の場合、その拳は大変なことに成りかねない。さきの王殺しの経験から、思わず断句を投げ入れる。私には関係のない事、のはずだった。そのため口を挟んだのは自分でも理由が分からない。ただどうしてか、このまま見ているのだけは良くないのではと思った。


「うるさい、指図するな」


 猛火で焙りたてるような激情。


「誹るのなら、どうか私でお願いします」


 言いながら、強調するように前髪に触れる。誹謗中傷に慣れている私の存在は、この場を収めるには最適だと思った。面倒なことになる前に、私が口撃対象になればと。

 しかし、ぱきりと。薄氷を踏んだ際に鳴る音。次に男が苦悶の表情を浮かべる。何かで苦しんで、またその苦しみが全て、皺や歪みとなって顔に出たのだ。自分の髪を掴んでいる男の手首を、彼女が握っている。ただ、それだけで。小鳥でも絞め殺すように、男の手首は握り潰されそうになっていた。

 途端にあがる、本能的に救いを求めるような悲鳴。ぎしぎしと骨が砕かれようとする音。折れてはいないようだが、罅くらいは入っているだろう。脂汗がにじみ続けるような苦痛に、男は虫のように身をよじらせた。

 あの細身のどこに、そんな力強さがあるのだろう。彼女は一体、何者なのか。もしかしたら世から衰退しつつある魔法、その使い手なのかもしれない。まあ、今日限りの者のことを考えても仕方のないことだが。

 その力強さに、男は思わず髪から手を放した。それに応じて彼女も手を放したが、どう見ても男の被害のほうが大きい。握られた右手は恐らくしばらくの間使い物にならないだろう。即ち、彼女を口撃した者はこうなるのだという証明である。


「幽霊が……!」


 手首を抑えながら、言う。痛みで息が楽ではないほど、男は苦しいらしい。


「くだらないわね。あなたが侮辱しているのは、わたしではなくこの髪でしょう。この髪はわたし。わたしを蔑む権利はあなたにないわ」


 彼女の言葉は、よく分からない。自分の一部である髪の侮辱に対する憤慨だろうか。自分の身体への暴言など、それこそどうだっていいことだ。それに罵倒は待っていれば過ぎ去るというのに、わざわざ反論する必要もないだろう。

 唐突に汽車が揺れた。ほんの少しの間だったが、獣が胴を振るわせたかのような、そんな揺れだ。いつの間にか、次の駅へ到着している。それに、私たちは気づいていなかった。

 否、一人だけ。彼女だけが、車体が揺れる前に立ち上がっていた。この駅で降りるのだろう。立ち上がるという所作、その当たり前の動作すら王侯貴族のように洗練されている。

 この車両の扉が開いた。威勢の良い溜め息とでもいうような、そんな噴射音が響く。出口へと向かう彼女の背中に、誰かが「魔女だ」と誹った。先ほどの、常人離れした握力に対してのことだろう。確かに、あの力強さは魔法と言われればそれで納得できる強さではあった。

 男がどのような目に合ったか見ていたにも関わらず、性懲りもなく投げつけられる暴言。根付いた差別意識は、その程度では止まらない。力強さはこの場では意味のないものだ。戦場でしか価値がない私みたいに。

 その言葉に、出口へ向かっていた彼女はぴたりと立ち止まった。


「そうやって、後ろから罵倒するだけなら。どうやっても、わたしを振り向かせることすら出来ないわ」


 そう言って、列車の出口に消えていった。車窓の向こうに力強い後ろ姿が消えていく。残された乗客は呆気に取られていた。もう二度と会わない人物だろうが、まさか強い意思を以て反論してくる者はいようとは。銀髪の者でここまで言う者はきっとこれまで、そしてこれからもいないだろう。少なくとも、私はただ過ぎ去るのを待つだけだ。

 この汽車が再び動き出すのを待つように。

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