「どうしたの? ルノー。何故謝るの?」
理由が分からず、イレーネは首を傾げる。
「……ごめん、実は半月ほど前に……屋敷は売れたんだ。だから君の借金は全て消えたよ」
「え? そうだったの? だったら教えてくれれば良かったのに」
「そうなんだけど……ただ、迷ったんだ。何しろ、あの屋敷は君とおじいさんの思い出が沢山詰まっているだろう? 他人の手に渡れば、もう二度と立ち入ることが出来ない。思い出の場所が失わるのはイレーネにとって、辛いことじゃないかと考えると、どうしても伝えられなくて……」
申し訳なさそうに俯くルノー。
「……ルノー。ありがとう」
少し躊躇った後、イレーネは礼を述べた。
「イレーネ……」
「私のことを考えて、屋敷が売れたことを報告しなかったのでしょう? 気遣ってくれて嬉しいわ。それで、どなたがあの屋敷を買ってくださったのかしら?」
「ごめん、言えないんだ。個人情報に関わることだから……だけど一括で支払ってくれたから相当の金持ちだと思う。俺も不動産業者から聞いた話だからあまり詳しくは分からないんだ」
「そうだったのね。でも、そういうことなら仕方ないわ」
せめて、自分と祖父の思い出の屋敷を誰が買い取ってくれたのか知りたかった。しかしそれが叶わない願いだと分かり、イレーネは寂しくなった。
「イレーネ。それで、これからどうするんだ? 俺はまだ仕事が残っているけど、今夜もしよければ俺の家に泊まらないか? 両親はきっと喜ぶと思うんだけど?」
「駄目よ、それは無理。だってルノーには婚約者がいるのでしょう? ……婚約者は大切にしてあげないと」
イレーネは自分とルシアン、そしてベアトリスの姿を重ねる。
「分かったよ。ならどうするんだ?」
「とりあえず、今夜はホテルに泊まるわ。それからのことはこれから考えようかしら」
「なら、ずっと『コルト』で暮らすことになるんだな?」
「ええ、多分」
曖昧に答えるイレーネ。
これからアパートメントを探す予定ではあったが、もし家賃が高ければもっと田舎で暮らす必要があるからだ。
(もう今の私には住む場所もないし、契約も8ヶ月早く終わってしまったからお金もいつまで持つか分からないものね。節約しないといけないわ)
「良かった。それを聞いて安心したよ。それで今日はこれからどうするんだ?」
「数ヶ月ぶりの故郷だから、お散歩をしてこようかと思うの」
「散歩か。イレーネらしいな」
笑顔になるルノー。
「ええ。それでは私、もう行くわね。お仕事の邪魔してごめんなさい」
「イレーネ!」
背を向けて歩き出すイレーネにルノーは声をかけた。
「何?」
「滞在先が決まったら、連絡してくれよ!」
「ええ、分かったわ」
イレーネは手を振ると、再び歩き始めた。
ある場所を目指して――
****
「ふぅ……ようやく到着したわ」
45分かけて、イレーネはようやく懐かしい屋敷に到着した。慣れないブーツに長時間歩くにはあまり似合わないデイ・ドレスで歩いてきたのでイレーネは疲れ切っていた。
屋敷の周囲はロープが貼られ、『売却済み』と書かれた看板が地面に突き刺さっている。
「やっぱり……ルノーの言うとおり、本当に売れたのね……」
ポツリと寂しげに呟き、イレーネは目の前の古びた屋敷を見上げる。
「あの屋根に、子供だった頃良く登ってお祖父様に叱られてしまったわね。あの窓枠は古くて壊れてしまたのだっけ……。リビングの床も一部穴が空いてしまっているけど、私もお祖父様も修理出来ずにそのままになっていたし……」
この屋敷で暮らした思い出が再び蘇ってくる。
面接に合格して、この屋敷を離れたときとは別の感情がイレーネの胸に込み上げてくる。
「お祖父様……私、また全て失ってしまったの……住む場所も、大切な人も……」
いつしか、イレーネの目に涙が滲む。
(駄目よ、泣いたら。どのみち8ヶ月後には、マイスター家を出ることが決まっていたのだから。それが早まっただけのことじゃない。それに今終わりになって良かったと思わなければ。そうでなければ、益々離れ難くなってしまっていたに違いないわ)
無理に自分の心にそう、言い聞かせる。
「ここから屋敷を見つめるだけなら……許されるわよね?」
誰に言うともなく、イレーネは屋敷を見つめながらポツリと呟くのだった――