ルシアンはイレーネがケヴィンと供に会場を去ったことを知らぬまま、大勢の人々からもみくちゃにされていた。
しかも運の悪いことに、新聞記者達も数多く集まっていたのだ。
「ベアトリスさん! こちらの方が恋人なのですか!?」
「お相手は以前から噂のあったカイン氏ではなかったのでしょうか!?」
「お二人は遠距離恋愛中だったということですね?」
記者達の不躾な質問にルシアンは反論した。
「はぁ!? さっきから君たちは一体何を言ってるんだ! 俺と彼女は……!」
すると、場馴れしたベアトリスが笑顔でルシアンの口元を押さえた。それだけで記者たちは歓声を上げる。
「皆様、どうか落ち着いて下さい。彼はルシアン・マイスター伯爵。一般人ですので、この様な取材には慣れていないのですから」
「ベアトリス! 君は一体……!」
なおも反論しようとすると、ベアトリスは一歩前に進み出てきた。
「私からご説明致します。私と彼は恋人同士でした。ですが2年前に理由あって離れ離れになってしまいました。ですが、私はずっと彼を忘れたことはありませんでした。私は彼に対する想いを舞台で歌い、演じてきたのです。今回『デリア』でオペラを上演することになり、こうして彼に再会出来たのも運命だと思っております!」
世界の歌姫として名を馳せるベアトリスの声は会場内に良く響き渡った。
当然、ルシアンが今回挨拶を交わす予定だった取引先の社長達の耳にも。
もはや、ルシアンは顔面蒼白になっていた。
(な、何てことをしてくれたんだ……! もうこれ以上……我慢できない!)
「来るんだ! ベアトリス!」
ルシアンはベアトリスの腕を掴むと、強引に人混みをかき分けて逃げ出した。
「通してくれ! そこをどいてくれ!」
「ちょ、ちょっと! ルシアンッ!?」
「あ! 逃げないで下さい!」
「まだ聞きたいことが沢山あるんですよ!」
ルシアンはベアトリスを連れて追ってくる記者たちを必死にまくと、レセプション会場の中庭まで逃げてきた。
「はぁ……はぁ……こ、ここまで逃げてくればいいだろう……」
息を切らせながらルシアンは会場を振り返った。
「アハハハハハハ……ッ。懐かしいわね。私達、良くこうしてゴシップ記者から逃げ惑っていたのを思い出さない?」
ベアトリスは面白そうに笑う。
「笑い事じゃない、それに生憎俺は思い出話に浸る予定なんかないんでね。一体どういうつもりだ! 何てことをしてくれたんだよ! 今夜は大事なパーティーだったというのに……君のせいで全て台無しだ!!」
「大事なパーティ? もしかして自分の婚約者を披露するつもりだったのかしら?」
ベアトリスは腕を組んだ。
「何だって?」
「彼女があなたの婚約者なの? いつから恋人が出来たのよ。あなたは私に言ったわよね? 自分が好きになる女性は後にも先にも君だけだって。あんなに私達……愛し合ったじゃない」
「……ああ、そうだったな。そして……それだけ君に傷つけられてもきた」
「どういう意味なのよ!」
「俺はもっと君と色々な場所に出掛けて普通の恋人同士のように楽しみたかった。だが、あの頃から既に君は有名人だった。人々の目から隠れるようにデートをし、堂々と会うことも出来なかった。だから郊外の静かな場所に家を買って、2人でのんびり過ごそうとしても……こんな古びた家なんてイヤだと文句ばかり言っていたよな。俺が目立たないような物件を探すのに、どれほど時間を費やしたかも知らずに」
「な、何よ……! あの頃はそんなこと一度も話してくれたこと無かったじゃない!」
「そうだ。君を愛していたからな。だから言わなかった。それなのに、君は置き手紙だけ残して、去って行ったじゃないか。『どうしても一流のオペラ歌手を目指したいので、お別れします』と、たったそれだけ書き残して……! 俺がどれだけ君を捜したか分からないだろうな!」
ルシアンは感情を顕にした。
「私ばかり責めないでよ! 自分は何? マイスター伯爵に私との交際を認めさせられなかったじゃない! 私と別れなければ、次期当主にはさせないと言われていたでしょう! どれだけ私が屈辱だったか分かる? ただでさえ、オペラ歌手を目指しただけで私は家族から縁を切られてしまったというのに……!」
「……つまり、そういうことだよ」
ルシアンがポツリと口にした。
「どういうことよ」
「俺と君は悪縁だったってことだ。出会うべきじゃなかったんだよ」
「な、何ですって……私は別れてからも一度だってあなたを忘れたことは無かったのよ!」
「俺だって、そうだった……でも今は違う。大切な存在が出来たんだ」
ルシアンはようやく自覚した。
(そうだ……俺はイレーネを愛しているんだ……)
「わ、私は世界の歌姫と呼ばれる存在なのよ……? その私を捨てるって言うわけ?」
ベアトリスは声を震わせる。
「俺を最初に捨てたのは君だ。そして、今度は俺が君を捨てる番だ」
「!!」
その言葉にベアトリスの肩が跳ねる。
「もう、二度と俺と……彼女の前に現れないでくれ。もう俺たちは2年前に終わっているんだよ」
「な、何よ……!! 私を捨てるなんて……こ、こんなことをして許されると思っているの! 絶対に後悔することになるわよ!!」
「後悔するのは、彼女を失うことだ」
それだけ告げると、ルシアンは駆け出した。
イレーネがいるはずのレセプション会場を目指して――