「凄い騒ぎですね……あれ? あの女性……歌姫のベアトリス令嬢だ。隣に立っている男性はどなたでしょうね?」
ケヴィンは騒ぎの方を見つめながら首を傾げる。
「ルシアン……様……?」
イレーネは今の状況が理解出来ずに呆然と立ち尽くしていた。
「イレーネさん? どうかしたのですか?」
ケヴィンがイレーネの様子がおかしいことに気付き、心配そうに声をかけてきた。
「い、いえ……まさかベアトリス様がいらっしゃることに驚いているだけです」
そう、本当にイレーネは驚いていたのだ。
「ええ、僕も驚いていますよ。まさか世界の歌姫がこのレセプションに訪れるなんて……それにしても凄い騒ぎですね。でもそれも当然かも……男性と一緒にいるのですから。先程、婚約者が……とか騒いでいましたよね?」
その言葉にイレーネの肩がピクリと動く。
今やベアトリスとルシアンの周囲は物凄い人だかりで、2人の姿すら確認できない状態だった。
それが何だかイレーネは寂しくて仕方なかった。
「あ、そういえばイレーネさんは婚約者の方といらっしゃっていたのですよね? 待ち合わせしていたのではありませんか?」
「いいえ……婚約者は……たった今いなくなりました」
ケヴィンの質問にポツリと答える。
「え? いなくなった? それはどういうことです?」
「あ、あの。つ、つまりですね。私は彼の婚約者の代理として、出席しました。どうしてもお相手の女性が時間に間に合わないということで……。彼は正式に招待状をいただいておりまして、1人で入場しにくいと相談されました。そこで私が代理で一緒に会場入りしたのですが……」
イレーネはそこで一度言葉を切る。
「イレーネさん……?」
(どうしたのだろう? こんなに寂しげな表情のイレーネさんは初めてだ……)
「今、その必要は無くなりました。本当の婚約者がいらっしゃったようなので……ということで、私は帰ることにします」
「え? 帰るのですか?」
その言葉に驚くケヴィン。
「はい。私はもう……必要ありませんので」
「ならご自宅まで送りますよ。あの自宅でよろしいのですよね?」
ケヴィンはイレーネが心配でならなかった。
「え、ええ……」
頷きかけ、イレーネは気付いた。
(そうだわ……あの家に置かれた写真はベアトリス様だった。つまり、あの家の本来の持ち主はベアトリス様……。リカルド様と結んだ契約は私が1年間ルシアン様の契約妻を終えた後に頂くことになっていたわ。だったら……もらえるはずないわ)
それに、ベアトリスが住んでいたとなると尚更貰うわけにはいかなかった。
(私……もう帰る場所を無くしてしまったのね……)
イレーネは今、自分が全てを失ってしまったことを悟った。
「どうされたのです? イレーネさん。顔色が悪いですよ?」
「だ、大丈夫です……ご心配いただいてありがとうございます」
けれど、今のイレーネは立っているのもやっとだった。
これほど多くの人々が集まっている会場なのに……今、世界で自分は一人ぼっちのように感じてならなかった。
「大丈夫なものですか。具合の悪そうな女性を……警察官として見過ごすわけにはいきませんから」
「ケヴィンさん……それでは大変申し訳ございませんが……駅前まで送っていただけますか……?」
「駅前ですか? まさか汽車にでも乗られるのですか?」
「いいえ。今夜は何処かホテルに泊まるつもりです」
「何ですって? ホテルにですか? 何故です? ご自宅があるではありませんか?」
「……違うんです」
「え?」
「あの家は……私の家では無いのです。ほんの少しの間、間借りしていただけですから」
イレーネは弱々しげに微笑む。
「間借りって……だって、畑まで耕していたのにですか? そのうち、ここでずっと暮らしていくことになるって……楽しそうに話してくれたじゃありませんか……」
「そう言えば……そんなこともありましたわね」
俯くイレーネ。
「……僕の家に行きましょう」
もうこれ以上、ケヴィンには傍観することが出来なかった。
「……え?」
イレーネは顔をあげる。
「僕の家に行きましょう。これでも僕は伯爵家です。家はそれなりに大きいですし、家族も使用人達も住んでいますし、客室だってあります。どうか、僕の友人として今夜は招待させて下さい」
ケヴィンの目は真剣だった。
「ですが、それではあまりにもご迷惑では……?」
「このまま駅前に連れていくほうが余程迷惑です。イレーネさんのことが心配で……僕の生活に影響がでてしまうかもしれない」
「フフ……ケヴィンさんたら……」
「良かった。やっと……少しだけ笑ってくれましたね?」
「……では、今夜一晩お世話になっても宜しいでしょうか……?」
「ええ。勿論ですよ」
ケヴィンは笑みを浮かべる。
こうして、イレーネはケヴィンと共にレセプション会場を後にした。
受付にルシアン宛の言伝を残して――