イレーネがこの家に滞在してから5日が経過していた。
「フフフ……うん。良い具合に焼けたわ」
かまどを覗き込んだイレーネは満足そうに頷き、蓋を開けた。途端に部屋中にシナモンとりんごの甘い良い香りが漂う。
「完成だわ。私特製のアップルパイが。これならきっと喜んでくれるはずだわ」
イレーネはウキウキしながらリビングに行くと、テーブルのセッティングを始めた。
「この家で初めて、お友達をお招きするのだから粗相のないようにしなくちゃ」
お友達……勿論、ブリジットのことである。今日はブリジットと彼女の友人アメリアを招いたお茶会をすることになっていたのだった――
****
――10時
「ようこそ、いらして下さいました。ブリジット様、アメリア様」
約束の時間に来訪したブリジットとアメリアをイレーネは笑顔で迎え入れた。
「ええ。遊びに来てと言うので、言われた通りに来たわよ。……はい、これはお土産よ」
少し照れた様子で、ブリジットはカゴに入った花束を差し出した。
「まぁ、これは美しいお花ですね。それに香りもとても素敵です」
花かごを受けとったイレーネは笑みを浮かべる。
「私は紅茶を持ってきたの。受けとって頂戴」
アメリアはツンとした様子でリボンがかけられた紙袋を手渡す。
「わざわざリボンまでかけていただくなんて、お気遣いありがとうございます。ではどうぞ中へお入り下さい」
イレーネに声をかけられ、2人の令嬢は室内に入る。
「ルシアン様から別宅を貰ったと聞いていたけれど、建物の外観は古そうに見えても中は立派じゃないの」
リビングに入るなり、ブリジットが室内を見渡した。
「ええ、そうね。家具なんかどれも立派だわ」
アメリアもブリジットに同意する。
「フフフ、ありがとうございます。実はお二人がいらっしゃるので、アップルパイを焼いたのです。アメリア様が下さった紅茶と一緒に頂きませんか?」
「まぁ、そんなものが作れるの?」
「アップルパイ……悪くないわね」
ブリジットとアメリアが頷き合う。
「では、今用意してまいりますので、おかけになってお待ち下さい」
2人の令嬢は椅子に座ると、イレーネは台所に準備に向かった。
「お待たせ致しました」
トレーにアップルパイと紅茶を乗せてイレーネがリビングに戻ってきた。
「どうぞ、私が焼いたアップルパイです」
皿の上には切り分けたアップルパイが乗っている。
「まぁ、すごい! リンゴがぎっしり詰まっているわ」
「本当……こんなに豪華なアップルパイは初めて」
アメリアもブリジットも素直に喜ぶ。
「ありがとうございます。どうぞお召し上がり下さい」
イレーネに言われ、早速焼き立てのアップルパイを口に運ぶ2人の令嬢。
「……美味しい」
「本当……! すごく美味しいわ……!」
「本当ですか? ありがとうございます」
2人に褒められ、嬉しくなったイレーネは笑みを浮かべる。
「ええ。今まで色々な名店のケーキを食べてきたけれど、このアップルパイは絶品だわ」
「そうね、お世辞抜きで美味しいわね」
「そうですか? それではまだアップルパイが残っておりますので、お土産にお持ち帰りになりますか?」
イレーネの言葉に2人の令嬢は顔を見合わせ……頷いた。
**
女同士の会話が弾んでいると、不意にブリジットが何かを思い出したかのようイレーネに声をかけてきた。
「そう言えば、イレーネさん。聞きたいことがあったのだけど?」
「はい、何でしょう?」
「何故、彼女の写真が飾ってあるのかしら?」
「そうそう! 私もそれを聞きたかったのよ」
アメリアも興奮した様子でイレーネに尋ねる。
「彼女の写真……?」
イレーネはその言葉に首を傾げる。
「そうよ、あの写真よ。何故、ベアトリス嬢の写真が飾ってあるの? もしかして貴女も彼女のファンだったのかしら?」
アメリアがチェストの上に飾られてある写真を指差す。
「ベアトリス……?」
(何処かで聞いたような名前だわ……)
けれど、何処で聞いた名前なのか思い出せずにいた。
「あらやだ。もしかして顔だけ知っていて名前が分からないのかしら? 彼女の名前はベアトリス・オルソン。貴族令嬢でありながら、オペラ歌手になった女性なのよ。2年ほど前に出演したオペラで話題になって、今や歌姫として大人気なのだから」
「そうなのですか?」
ブリジットの話で、この時イレーネは初めて写真の人物の名を知ることになるのだった――