「イレーネさん。2階の掃除が終わりました」
リカルドは階下にやってくると、窓を拭いていたイレーネに声をかけた。
「本当ですか? ありがとうございます。疲れましたでしょう? 今お茶の用意を致しますので、こちらでかけてお待ち下さい」
イレーネはリビングに置かれたダイニングテーブルの椅子を勧める。
「お茶の用意なら私が致しますが?」
「いいえ、そんなお手伝いしていただいた方にお茶の用意までお願いするなんて出来ませんわ。どうぞかけてお待ちになっていて下さい」
「そうですか? では、そのようにささていただきます」
リカルドはイレーネの言葉に甘え、椅子に座る。
「ではお茶の用意をしてまいりますね」
にっこり笑うと、イレーネは奥にある台所へと消えた。
「本当にイレーネさんは心根が優しく、気配りのできるお方だ……それに部屋もこんなに綺麗……に……」
部屋の周囲を見渡していたリカルドの目がある一点で止まり……自分の顔色が一瞬で変わっていくのを理解した。
(あ……あ、あれは……あの写真は……ま、まさか……!!)
リカルドは目をぎゅっとつぶり、恐る恐る目を開ける。そして次に目をゴシゴシとこすり、凝視する。
それでも例のモノは視界から消えてくれない。
「そ、そんな……う、嘘だ………」
震える足取りでリカルドはチェストに近付き……写真立てを手に取り、凝視した。
(ま、間違いない……! この写真は……あの方の写真だ……! な、何故ここにあるのだ? こんなもの……屋敷に入ったときには無かった!! 一体どういうことなのだ……)
まるで生まれたての子犬のようにブルブルと小刻みに震えながら写真を見つめるリカルド。
そのとき――
「どうされましたか? リカルド様」
背後からイレーネに突然声をかけられた。
「うぎゃああああ!?」
リビングにリカルドの情けない悲鳴が響き渡った――
**
「どうぞ。少しは落ち着かれましたか?」
紅茶を飲むリカルドにイレーネが声をかける。
「は、はい……落ち着きました……」
しかし、実際のところはリカルドは少しも落ち着いてなどいなかった。心臓は痛いほどに早鐘を打っている。
そして笑顔でリカルドを見つめるイレーネに、言いようもない圧を感じる。
(どうしよう……イレーネさんに何を聞かれてしまうのだろう。写真のことか? 見つめていた理由か? それとも何故叫んだのか……? 駄目だ! どれを聞かれても……は、破滅だ……!)
「リカルド様……」
不意に神妙な顔つきでイレーネが名前を呼ぶ。
「は、はひ!? な、何でしょうか?」
ビクリとリカルドの肩が跳ねる。
「やはりお疲れなのではないですか? 顔色がどんどん悪くなっていますよ?」
「そ、そうでしょうか……気の所為ではありませんか?」
「気の所為には見えないのですけど……」
イレーネは皿のクッキーに手を伸ばすと口に入れ……「ま、美味しい」と呟く。
そんな様子をぼんやり見つめながら、リカルドは緊張しまくっていた。
(何故だろう? 私が写真を見つめているのは知っていたのに……何故何も聞かないのだろう? それはそれで居心地が悪い……)
そこで意を決して、リカルドは自分から質問することにした。
「あの、イレーネさん……」
「はい、何でしょう?」
「あ、あの写真ですが……」
チラリとリカルドはチェストを見る。
「あの女性の写真ですね?」
「ええ……そう……です……あれは……一体何でしょう……?」
自分でも意味不明な質問をしているのは分かっていたが、他にリカルドは言葉が見つからない。
「とても綺麗な女性だと思いませんか?」
「はい、そうですね」
自分が聞きたいのはそういう意味ではないと、口に出来ないリカルド。
「食器棚の奥に立てかけてあったのを見つけました。そこであの上に飾ったのです」
「何故飾ったのでしょう!?」
ガタンと席を立つリカルド。普通なら疑問に思って飾りませんよね? とは口が裂けても言えない。
「え? とても良く撮れている写真だからですけど?」
「へ……?」
予想外の言葉に固まるリカルド。
「あんなに素敵に撮れているのに、隠しておくのは勿体ないと思ったのです。あの写真に映る女性……とても素人には思えません。何というか洗練された……プロの女性のように見えました」
頷きながら語るイレーネ。
「素人には見えない……? プロの女性……?」
唖然とするリカルド。
(し、信じられない……! イレーネさんはあんなにポワンとした方なのに……本物を見分ける力でもあるのだろうか!!)
「ええ、それで飾らせて頂きました。素晴らしい写真ですよね」
「そ、そうですね……た、確かに……ハハハハ……」
笑いで誤魔化し、着席するリカルド。
(どうしよう……この件、ルシアン様に報告するべきだろうか? いや、報告すれば……多分タダでは済まされないだろう……だったら……)
紅茶を飲みながらリカルドはチラリとイレーネの様子を伺う。
イレーネは写真を気にする素振りもなく、メイドが用意してくれた焼き菓子を嬉しそうに口にしている。
(……よし、決めた。何もかも……無かったことにしてしまおう! そうだ、イレーネさんが写真を気にもとめていないなら、何もルシアン様に報告する必要は無いのだ! 第一、イレーネさんはそれくらいのことでは動じない大物なのだから!)
自分に強く言い聞かせ、ようやくリカルドは笑顔になる。
「本当にイレーネさんの淹れてくれたお茶は美味しいですね〜」
「恐れ入ります」
笑顔で答えるイレーネ。
「ええ。本当に癒やされる味です」
こうしてリカルドはルシアンに報告する事由は何もなかったことにしてしまった――