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79話 これは何だ?

――午前10時


イレーネとルシアンは『ヴァルト』の駅に降り立った。


「まぁ……何て気持ちの良い場所なのでしょう。森や山があんなに近くに見えるなんて。私が住んでいた『コルト』よりもずっと、自然豊かで素晴らしいわ」


嬉しそうに周囲を見渡すイレーネ。


「ここは避暑地として貴族たちから人気の場所だからな。その為、別荘地帯としても有名なんだ」


イレーネの荷物を持ったルシアンが背後から声をかける。


「ルシアン様、本当に私の荷物なのに持っていただいてよろしかったのですか?」


申し訳無さそうにイレーネが尋ねる。


「当然だ。俺が一緒にいるのに、君に荷物を持たせるわけにはいかないだろう? 大体俺の荷物など殆ど無いし」


腕時計を見ながら返事をするルシアン。


「そう言えば、何故ルシアン様の荷物は無いのですか?」


「祖父の別荘には俺の服は全て揃っているからだ」


「なるほど、流石はルシアン様ですわね」


イレーネは妙な所で感心する。


「突然の来訪だから迎えの馬車は無いんだ。あそこに辻馬車乗り場がある。行こう」


ルシアンが指さした先には、数台の客待ちの辻馬車が止まっている。


「はい、ルシアン様」


2人は辻馬車乗り場へ向かった――



****



ガラガラと走り続ける馬車の中で、イレーネは上機嫌だった。


「こんなに美しい森の中を走る馬車なんて、素敵ですね。空気もとても美味しく感じます」


森の木々の隙間からは太陽の光が幾筋も差し込み、幻想的な美しさだった。


「ああ……そうだな」


浮かれるイレーネに対し、ルシアンの表情は暗い。何故なら、もうすぐ頑固な祖父との対面が待ち受けているからだ。


(祖父は気難しい人物だ……果たして、こんなに脳天気なイレーネを受け入れてくれるだろうか? 何しろ……前例があるからな。だが、今にして思えば反対されて良かったのかもしれない……)


ルシアンは苦い過去を思い出し、ため息をついた。すると……。


「どうぞ、ルシアン様」


突然、イレーネが小さなガラスポットを差し出してきた。中には透明な丸い粒がいくつも入っている。


「……これは何だ?」


「ハッカのキャンディーです」


「え?」


顔を上げてイレーネをよく見ると、口の中で何かコロコロ転がしている。


「先程から元気がありませんが、馬車に酔われたのではありませんか? 私はこのように舗装された道も辻馬車も慣れておりますが、ルシアン様はそうではありませんよね? ハッカのキャンディーは酔い止めに最適ですよ?」


「いや、別に馬車に酔ったわけでは……」


そこまで言いかけて、ルシアンは口を閉ざした。笑みを浮かべながら成人男性にキャンディーを差し出すイレーネを見ていると悩む自分が馬鹿馬鹿しく思えたからだ。


(これから俺の祖父に会うというのに、肝心の本人が全く緊張していないとは……。イレーネらしいな……)


思わず苦笑してしまう。


「ルシアン様? どうされましたか?」


「いや、何でも無い。折角だから、キャンディーを貰おうかな?」


「ええ、勿論です」


ルシアンはガラスポットを受け取ると、蓋を開けてキャンディーを口に入れた。


「……うん、美味い」


「本当ですか? まだまだ沢山あるので遠慮せずにどうぞ」


「い、いや。一粒だけで大丈夫だ」


こうして、緊張が解けたルシアンと脳天気なイレーネを乗せた馬車はマイスター家の別荘目指して走り続けた――


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