「あの……ブリジット様がどうかなさったのですか?」
イレーネは首を傾げた。まさかブリジットがルシアンに恋心を抱き、マイスター家に度々赴いていることなど知るはずもなかったからだ。
「あの……実はブリジット様は……」
リカルドが重い口を開こうとした時。
「イレーネ嬢。彼女のことは気にする必要は無い。昨年開かれた社交パーティーでたまたま知り合っただけの女性だ。本っ当に、気にする必要はないからな?」
とくに、ブリジットはルシアンが一番苦手なタイプの女性だった。彼女のことを考えただけで、不愉快な気分になってくるルシアンは早々にこの話を終わらせたかったのだ。
「そうなのですか? でもルシアン様が気にする必要は無いおっしゃるのでしたらそうします」
人を詮索することも、無理に聞き出すこともしないイレーネはあっさりと頷く。
「ああ、是非、そうしてくれ」
2人の会話に慌てたのはリカルドだった。
「お待ち下さい、それよりももっと肝心なことがあります。イレーネさんはブリジット様に自己紹介なさったのですか?」
「いいえ? あの方たちからは名前を聞かれることも無かったので、自己紹介はしておりません」
「そ、そうですか……それなら良かったですが……」
イレーネの返事に、安堵のため息をつくリカルド。
「とにかく……今度から外出した際、遅くなるようなら電話をかけてくれるか? ここの書斎の電話番号と、屋敷の電話番号は知っているのだろう?」
ルシアンの言葉に、イレーネはパチンと手を叩いた。
「あ、言われてみればそうでしたね? 申し訳ございません、あまり電話をかけることにはなれていなかったものですから。何しろ、『コルト』ではまだあまり電話が普及しておりませんので」
「イレーネさん。『デリア』では駅前には公衆電話というものがあります。お金を入れると電話をかけることが出来ます。もし、よろしければ明日私がお供して公衆電話の掛け方を教えてさしあげましょうか?」
リカルドの言葉にルシアンは反応する。
「いいや、それは無しだ。明日は製粉会社の社長と会食がある。お前もそれに出席するのだ」
「え!? そ、そんな話は初耳ですけど!?」
「ああ、それはそうだろう。今初めて伝えたからな」
そこへイレーネが会話に入ってきた。
「あの、私なら1人でも大丈夫ですので。それに明日は外出することは無いと思います。マダム・ヴィクトリアのお店から本日購入したドレスにアクセサリーが届くことになっておりますから」
「そうですか……それなら仕方ありませんね」
明らかに落胆した様子のリカルドに代わって、ルシアンが尋ねる。
「何? 明日、マダム・ヴィクトリアの店から品物が届くのか?」
「はい、そうです」
「うむ……それなら、今日中にでも使用人たちにイレーネ嬢が私の結婚相手の女性になるということを皆を集めて伝えなければな……さて、何と言うべきか……」
すると、イレーネが申し訳無さそうに口を開いた。
「あの……そのことなのですが……実は、先程帰宅した際に……メイド長さんにお会いしたのです」
「何? メイド長に?」
ルシアンは嫌な予感を抱く。
「そして、ルシアン様とどのような関係なのかを尋ねられて……私はルシアン様の婚約者ですと返事をしてしまったのです」
「な、何だって!」
「そうだったのですか!」
再び同時に驚くルシアンとリカルド。
「はい、正面エントランスから堂々と入ってしまったのが良くなかったのでしょうか……? 裏口から入ったほうがよろしかったでしょうか? 申し訳ございませんでした」
「い、いや……イレーネ嬢、君は何も悪くない。元々は俺がすぐにでも君を全員に紹介していなかったのだからな……だが、そうか。婚約者と言ったのか」
そこへリカルドが口を挟んできた。
「ルシアン様、かえって好都合だったのではありませんか? メイド長に伝われば全員集めるまもなくすぐにでもイレーネさんのことが伝わるでしょう。それに実際はまだ当主であるミハエル様に結婚の承諾を得られてはいないのですから」
「うむ……確かにそうだな。ではイレーネ嬢、君は今は俺の婚約者という立場でこの屋敷にいてもらうことにしよう」
ルシアンはイレーネに声をかけた。
「はい、ルシアン様」
イレーネはニコリと笑みを浮かべた。
そして、ルシアンの危惧していた通り……その日のうちに、イレーネはルシアンの婚約者であるということが使用人全員に知れ渡ることになるのだった――