目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
35話 何も知らない者

 17時少し前に、イレーネを乗せた辻馬車がマイスター家に到着した。


「お客様、マイスター家に到着しました」


男性御者がイレーネに声をかけてきた。


「はい、どうもありがとうございま……」


そこまで言いかけて、ハタとイレーネは気付いた。


(そう言えば、つい先日貴族の御令嬢に言われたばかりだったわよね……)


イレーネの脳裏に赤い髪の女性……ブリジットの言葉が蘇る。


『ちょっと、ここはあなたのような身分の者が気安く出入りしていい場所じゃ無いわよ? 入るなら、せめて裏口からにしたらどうなの?』


(そうよね、私なんかが正面口から入ってはいけないわよね。現に昨日、このお屋敷を出るときもフードで顔を隠したくらいなのだから)


「あの、お客様……どうなさいましたか?」


考え事をして黙り込んでしまったイレーネに御者が遠慮がちに声をかけてきた。


「いえ、何でもありません。あの、恐れ入りますが馬車を裏口に回していただけますか?」


「裏口ですか? ええ、よろしいですよ。それでは裏口に周りますね」


男性御者は手綱を握りしめると、馬車の移動を始めた――




****


 マイスター家のフットマンとして働き始めて、ようやく1年を迎えようとしていたジャックは今とても忙しかった。


「全く……お使いから戻ってみれば、誰もいないんだからな……こんな一番忙しい夕方時だっていうのに。皆一体どこにいるんだよ」


ブツブツ文句を言いながら、ジャックは入り口にほど近い部屋で備品の整理をしていた。


「あ〜なんだ、この棚……ホコリが溜まっているなぁ。これじゃ片付けられないじゃないか」


その時――


「あの〜……すみません。どなたかいらっしゃいますか?」


女性の声が聞こえてきたのでジャックは部屋を出た。すると入り口の前で立っている一人の女性が目に入った。


その女性とは……イレーネである。


「え〜と……、どちら様です?」


ジャックに尋ねられたイレーネは少しだけ悩んだ。


(そう言えば、この屋敷の人たちに私のことは話してあるのかしら……万一の為に、あまり詳しい話はしないほうが良いかもしれないわね)


そこで、簡単な自己紹介をすることにした。


「はい、私は本日よりこちらでお世話になることになりましたイレーネと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


「イレーネ……?」


見たこともない女性を見て、首を傾げるジャック。


(う〜ん……見たところ、対して良い身なりはしていない。それに使用人用の勝手口から入ってきたということは、新しいメイドなのかもしれないな。なら丁度いい。早速仕事をしてもらおう)


「それじゃ、早速仕事を手伝ってもらえるか? この忙しいときに、皆どこへ行ったか姿が見えないんだよ」


「はい、分かりました。では何から手伝えばよろしいでしょうか?」


もとより、働く気が満々だったイレーネは元気よく尋ねる。


「まぁ、とりあえずは部屋に案内してやろう。荷物を置かないといけないからな。ついてこいよ」


「はい、お願いします」


「重そうな荷物だな、一つ持ってやろう」


「ご親切に、ありがとうございます」


ジャックはイレーネの荷物を一つ持つと廊下を歩き始めた。そしてその後ろをついていくイレーネ。


「え〜と……イレーネだっけ? 年齢はいくつなんだ?」


「はい、今20歳です」


「へぇ、20歳か。俺は19歳だ、一つ歳上なんだな。だが、ここでは俺のほうが先輩だから、そのことを忘れるなよ?」


「はい、忘れません。ではあなたのお名前を教えて頂けないでしょうか?」


丁寧な口調で尋ねるイレーネ。


「俺の名はジャックだ。よろしくな」


「ジャックさんですね? これからどうぞよろしくお願いいたします」


「ああ、任せておけ」


今までこの屋敷の中では一番下っ端だったジャック。ようやく新人が入ってきたことで、少しだけ偉くなったようで気分が良かった。


「ほら、この部屋を使えよ」


ジャックは木の扉の前で足を止めた。


「こちらのお部屋ですか?」


「そうさ。この部屋は空き部屋だから今日からここを使うといい。メイド服のことは良く分からないが、ロッカーの中にエプロンが入っている。とりあえず、それをつけてこいよ。俺は廊下で待っているから」


「エプロンですね? 少々お待ち下さい」


部屋に入ったイレーネはキャリーケースを足元に置き、早速ロッカーを開けると中には真っ白なエプロンが入っている。

早速エプロンを身につけ、部屋を出るとジャックが待っていた。


「お? 中々エプロン姿似合っているじゃないか」


愛らしい面立ちのイレーネにフリルのついたエプロンはよく似合っていた。


「本当ですか? ありがとうございます」


笑顔で返事をするイレーネ。


「よし、それじゃさっきの場所へ戻るぞ。お前に掃除を頼みたいんだ」


「お掃除は得意です。お任せ下さい」


「見かけによらず、頼もしい台詞だな。よし、早速行こうぜ」


「はい、ジャックさん」


こうしてジャックはイレーネを連れて、先程の部屋へ向かった。



イレーネが何者であるかも知らずに――


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?