――翌朝
「う〜ん……よく寝たわ……」
目覚めたイレーネはベッドの上で伸びをした。
「それにしても……いよいよ、本当に何も無くなってしまったわね」
この部屋には、もはやイレーネが眠っていたベッドしか残されていなかった。残りの家具は全て昨日、ルノーの手によって階下のリビングに運ばれていたからだ。
「さて、起きましょう。最後に何も忘れ物が無いか色々見て回らないとならないものね」
イレーネは室内履きに足を通すと、ベッドサイドにかけておいた洋服に着替え始めた。
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「うん、美味しい。我ながらクッキー作りの天才ね」
朝食代わりにクッキーを食べながらイレーネはウンウンと頷く。
イレーネは料理もお菓子作りも、この屋敷で働いていたボビーという名のシェフに教わった。
自分が屋敷を去った後、食事に困らないようにと彼が直々にイレーネに教えてくれたのだった。
「ボビーさん……この屋敷が無くなったことを知ったら、ショックを受けるかしら……」
少しだけ感傷に浸りながらクッキーを完食すると、屋敷の中に忘れ物が無いか見て回った。
「見回り完了、いよいよこの屋敷を出る時がやってきたわね」
扉を開けて外に出ると、鍵をかけるイレーネ。
「後はルノーに言われたとおり、鍵を郵便受けに入れておけばいいのね」
屋敷の鍵を紙でくるむと、郵便受けに入れた。
「これで……このお屋敷ともお別れね」
改めて、イレーネは屋敷をじっと見た。彼女がこの屋敷にやってきたのは5歳の時。
母親は出産のときに亡くなり、父親は5歳のときに病気で亡くなった。
家族を失ったイレーネを引き取ったのが、父方の祖父だったのだ。
以来15年間、ずっとイレーネはこの屋敷で暮らしてきた。その生活も今日で終わる。
「15年間、お世話になりました」
ペコリと屋敷に頭を下げると、2つのトランクケースをガラガラとひっぱりながら、イレーネは辻馬車乗り場を目指した――
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10時半――
イレーネは駅舎に到着すると、男性駅員に声をかけた。
「あの、恐れ入りますが……電話をお借りできないでしょうか?」
田舎町の『コルト』では、まだまだ電話が普及していない。そこでこの町に住む人々は駅で電話を借りていたのだ。
「ええ、よろしいですよ。どうぞ中に入ってお使い下さい」
「ご親切にありがとうございます」
イレーネはお礼を述べると駅員室に入り、壁に取り付けた電話の受話器を上げるとダイヤルした。
電話の掛ける相手は、言うまでもなく……。
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その頃、リカルドはイレーネを迎え入れる為に必要なリストを仕事部屋で書き出していた。
「まさか、こんなに早く契約結婚の相手が見つかるとは思わなかった……何から手を付ければ良いか分からなくなってきたぞ? せめてイレーネさんがこちらに来るのを1週間程遅らせてくれれば余裕があったのに……」
頭を悩ませていると、突然リカルドの前に置かれた電話が鳴り響いた。
リーン
リーン
リーン
「おや? 電話? 誰からだろう?」
訝しげに思いながら、受話器をとった。
「はい、こちらはマイスター家です。……え? ああ、イレーネさんではありませんか。 おはようございます。はい、私です。リカルドですよ。どうかされましたか? ……え? 今、何と申されましたか? ……はい……はい。ええっ!! もう、こちらに来られるのですか!?」
リカルドの驚きの声が部屋に響き渡るのであった――