それは今から約15分程前のこと――
「ふぅ……」
憔悴しきった様子で、この屋敷の当主ルシアン・マイスターが帰宅してきた。
「お帰りなさませ、ルシアン様」
「ああ、ただいま」
迎えに出てきたフットマンに帽子と鞄を託すと、ルシアンは首を傾げた。
「リカルドはどうした? いつもなら彼が迎えに出てくるだろう?」
「はい、リカルド様は応接室でお客様とお話中です」
「リカルドに客……? 俺の客ではないのか?」
ネクタイを緩めるルシアン。
「さぁ……どうなのでしょう? でもその女性はリカルド様を名指ししてきたそうですが」
「何? 女性……? リカルドが会っているのは女性なのか?」
「は、はい。そうですが……」
フットマンはリカルドが眉をひそめたので、遠慮がちに返事をする。
「……分かった。帽子と鞄を頼んだぞ」
「はい」
ルシアンは、何も事情も知らないまま応接間へと向かった――
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応接間の近くで足を止めたルシアンは開きっぱなしの扉を見つめた。
「何だ? 扉が開けっ放しではないか……もしかして客というのは帰ったのだろうか? だったら迎えに出てくればいいものを……大事な話があったのに……ん?」
何気なく応接間を覗き込んだルシアンは目を見開いた。
ソファの上にブロンドの長い髪の若い女性が座っていたからだ。
(もしかして、彼女がリカルドの客人なのか……? だが、その割には何故ひとりで部屋にいるんだ。一体どういうことだ? いずれにせよ、この屋敷の当主として何者か確認しなければ)
そこでルシアンは応接間の中に入ってくると、声を掛けた。
「誰だ? 君は」
その声は意外なほどに静かな応接間に響き渡った。
「え?」
気を取られていたイレーネは突然声をかけられ、少しだけ驚いた。そして扉の前に立つルシアンに気づく。
(誰かしら? あの男性は……あの姿を見る限り、フットマンには見えないし……でも困ったわ。リカルド様以外には来訪した理由を告げてはいけないと言われているのに)
イレーネは何と答えれば良いのか分からず、考え込んでしまった。もとより、少し呑気でありながら真面目なイレーネ。契約妻になるための婚姻届にサインしたにも関わらず、リカルドとの約束が頭から離れない。
「君……聞こえているのか? 誰だと尋ねているのだから、質問に答えるべきではないのか? それとも君は私がこの屋敷の当主、ルシアン・マイスターだということを知らないのか?」
ルシアンは『デリア』の町では、伯爵でありながら青年実業家としてもかなり有名であった。地元の広報にも写真が掲載され、顔も知れ渡っている。
田舎町から出てきたイレーネには当然知る由も無かったが……ルシアンという名前でイレーネは反応した。
(この方がルシアン様だったのね。私の契約結婚相手となるお方……)
そこでイレーネは立ち上がると、ドレスの裾をつまんで挨拶をした。
「大変申し訳ございませんでした。はじめまして、マイスター伯爵様。私はイレーネ・シエラと申します。『デリア』の町から伺いました」
「……そうか、それでは君はどんな用件でこの屋敷に来たのか教えてもらえるか?」
ルシアンは棘のある言い方でイレーネに尋ねる。
しかし、彼がこのような態度に出るのはわけがあったからだ。たいていの女性は彼のこのような態度を見ると、萎縮するのだがイレーネは違う。
「用件……用件ですか……?」
イレーネは少しだけ考えた。
リカルドからは自分以外の者に、ここへ来た目的を告げないように言われている。だが、目の前にいるルシアンは1年間の契約とは言え、結婚する相手となるのだ。
(そうね。ルシアン様には正直に答えましょう)
「はい。私はこの度、ルシアン様の期間限定のお飾り妻になるためにマイスター家に伺いました。これから1年間、どうぞよろしくお願い致します」
イレーネはにっこり笑みを浮かべ……対象的にルシアンの顔がみるみるうちに青ざめていく。
そして次の瞬間……
「な、何だって――!?」
ルシアンの声が応接間に響き渡った――