選手たちは、横並びで一斉にスタートした
いや、すでに何人か抜け出している
俺もまずは、最短距離を目指し内側に詰めようとする
しかし、内側からスタートした選手が壁になって、入っていけない
ほかの選手たちは、意図的に壁になっているわけではないだろうが、
早く最短距離をとれるポジションに移動したい俺にとっては、かなりの邪魔なポジションを取られている。
このままでは埒が明かない。一旦後ろに下がって様子をみるか
そこまで考えて、違うと気づく
俺の戦略はあくまでも、先頭を抑えての「逃げ」だ
インコースに移動するために後ろに下がるのは論外
それは戦略的な「逃げ」じゃなく、ただの逃げ腰や弱腰としか言えない
危うく戦略を崩してしまうところだった
こんな調子では逃げるどころか、追いかけることも怪しい
気合を入れなおし、顧問のアドバイスを思い出す
(「ええか?『逃げ』をやり通すためには先頭を抑える必要がある。
お前は走力が不足しているから、逃げ切りのトップゴールは狙えない。
練習量が足りないからな。
最初にすべての力を使い果たしてでも、先頭のペースを握るんや。
そうすれば、
終盤に混戦を巻き込める」)
実力が足りていない俺の現状では、終盤に運を味方にしなければ勝つことは不可能だ
俺が運を味方にするためには、たとえ序盤ですべての力を使い果たしてでも、先頭に出ることが必要だ
限界ギリギリ
すべて使い果たしたその状態
そこから、もう一歩踏み込んだ""粘り""の走り
それを絞り出すための練習は、短いながらも積み重ねてきたはずだ
自分を信じろ
自分の戦略を改めて思い出し、先頭に行くために加速していく
負けてたまるか。俺は勝つために練習してきたんだ
300mを過ぎて2度目のカーブに差し掛かる
「前に行け!」と、顧問の声が聞こえる
その指示を聞いて、俺は速度を上げていこうとする
しかし、前との距離は詰まらない
すでに充分に速度は乗っているはずだ
これ以上ないほどに調子もよかったじゃないか
ただ、あと1歩の差
その差が詰まらない
俺が遅くなっているのか?それとも相手がペースを上げているのか?
相手はこれが最高速なのか?もしかしたら相手はまだ余力を残しているんじゃないか?
俺は迷いながらも、息を大きく吸い込み脚に力を込める
差は詰まらない
先頭集団はばらけており、十分なスペースはある
最短距離ギリギリを。トラックギリギリの最速ラインを
肩を壁にこするイメージで走っていく
それでも差は詰まらない
直線では全身を大きく使う。
腕で、胴で、脚で。今使えるすべての筋力を結集し、速度を上げる。
先頭まであと2人。
カーブに入るたびに、フォームが崩れていくのを感じる
フォームが崩れていくのを頭で理解しながらも、修正はできない
修正しようにも先頭がそれを許してはくれない
フォームの修正のために力を抜いてしまえば、スパート地点よりはるかに手前で、一瞬のうちに引きちぎられてしまうだろう
そんな予感が俺の中に常にある
このまま負けてたまるか
意志だけは負けずにいる。心はまだ折れてはいない
ただ身体が追いついてこない
身体は意志とは関係なく、動くことを止めようとしている
足首と手首に鎖が巻き付いているかのような錯覚
息を大きく吸い込めば、肺を焼かれるかのような熱が通る
血が全身の毛穴から抜けていき、力が急速に失われていく感覚
心拍数は上昇したままだ
全力を出している
それでも先頭は落ちてはこない
むしろ上がっているか?
いや違う、俺のペースが落ちてきている
じりじりと背中が遠くなる
1歩分、2歩分
徐々に離されていき、先頭の影すら遠くなる
俺の身体よ!動け!そう願っても遠くなっていく背中は変わらない
ここで落ちてしまえばもう先頭には届かない
それどころか、今いる順位を維持することも不可能になる
ほら、後ろから追い上げてきている選手の足音が近づいてきた
俺は、練習でしてきたことを思い出す
逃げ戦術がうまくいかなかった場合のリカバリー
ペースを落とさずに走る技術
フォームや状況が整わないときの素早い対応
それらを考えている余裕はとうに吹き飛んだ
こうなってしまえば、戦略など関係ない
頭の中にあるものだけでは、戦うことなどできない
俺が、今まで積み上げてきた身体で戦うしかない
何ヵ月鍛えたと思ってる
そこまで考えて、俺はふと気が付いた
そう、結局のところはそうなのだ
トレーニングで積み重ねてきたものを出すしかないのだ
先頭の彼らは、何年も前から走り続けてきている
俺はたかだか数か月
トレーニングによる蓄積は、
今このトラック上にいる選手の中で、
俺に最も足りていないものだ
ラストスパート200m
吹き抜けていく風のように、横を抜けていく彼ら
対照的に、崩れていく泥人形のような俺
身体が思うように動かず、バラバラになっていくのを感じる
あれだけ頼りになる気がしていた青のトラックは、俺を支えてはくれず
沈んでいく沼を、醜くばたばたと
まとわりつく熱と日差しの間を
もがきながら走っているような気分になる
焦点がうまく定まらない
音が遠くから聞こえる
隣を抜けていく人たちの足音は、やけにうるさく感じた