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第7話:スタートライン

「どう?緊張してる?」


アップが終わってスタートライン近くに待機している俺は、誰かに声をかけられた。

声の主のほうを振り返ると、羽田先輩だった。


緊張…緊張か…。すこし考えてから俺は答える。

「そうですね…正直わからないです」

今の素直な感想を、羽田先輩にそのまま伝える。


応援してくれてる人や、これから一緒に走る周りの選手のことを考えている余裕は全くない。

近づいてきている羽田先輩に、声をかけられるまで気づかなかったくらいだから、視野はすごく狭くなっているのだろう。


しかし、緊張して身体が動かない感じではない。呼吸も落ち着いている。

それでも、足元がふわつくような感覚に陥る。これは緊張なのだろうか?


「最近ずっと筋肉痛だったから、今は身体が軽いんじゃない?」

「ああ…たしかにそうかもしれません…」


そういえばそうだ。ここ2か月は筋肉痛になっていない日はなかった。

今日は疲労は完全にない。コンディションは間違いなく、ここ2か月で一番いい。

身体に違和感があるのはそのせいかもしれない。


「一番最初の競技は僕たちだね、がんばっていこうか」


そういって羽田先輩は握ったこぶしを、俺の前に突き出した。

羽田先輩の動作につられて、俺もこぶしを突き出す。

羽田先輩は自分のこぶしを、俺が突き出したこぶしに軽く当てて、自分のフィールドに向かって歩いて行った。


羽田先輩は今日、100mと走り幅跳び、三段跳びの3種目に出場する。

特にこれから始まる走り幅跳びは、羽田先輩の得意種目で、2年生ながら優勝候補の筆頭でうちの部員は優勝を期待している。


そんな状況で、自分のほうが重圧がかかっているはずだろうに、

初めての大会で緊張しているかもしれない俺のほうに声をかけてくれたのだ。

羽田先輩の背中を見送りながら、先輩の偉大さを感じる。


羽田先輩がかけてくれた応援に応えるために、軽く頬をたたき気合を入れなおす。


自分の口が乾いていることに気づき、待機場所にもってきたお茶で口を湿らす。

お茶を飲んで初めて、俺は自分が思っているより緊張していることに気が付いた。

主人公なら初めての大会で緊張することなく、むしろ楽しめたりするのだろうけど、俺はそんなにうまくいかないな。

そんなことを考えながら、二口程度お茶を含む。


「それでは内側から順に、ゼッケン1番から並んでいってください」


スタッフに誘導されて、スタートライン近くに移動する。

俺はゼッケン23番。外側のスタート位置に待機する。


周りの選手は軽くジャンプや屈伸をして身体をほぐしていく。

俺は、スタートラインから2歩ほど下がって深呼吸と大きく伸びをする。


指先から足先まで、しっかりと血が回っているのを感じる。

今日は、世界と自分自身の境界をやけにはっきりと感じる。

他校の選手や応援のプレッシャーが肌を押しているが、不思議と不快ではない。


「オンユアマーク」


選手が位置につく。数瞬遅れて俺も位置につく。



(「いいか谷口くん。長距離走のことは詳しくないが、スタートのコツを教えてあげよう」)


すこし偉そうに語る東先輩のアドバイスを思い出す。

俺はスタートラインのぎりぎり手前につま先を乗せた。


(「スタンディングスタートは、スタブロを使えるクラウチングスタートと違って、前に体重を乗せることが不足しがちだ。理想は前足一本に全体重をかけること。忘れるなよ!」)


右足を軽く引き、少し後ろに寄った重心を前足に寄せていく。


(「あとは、適度な脱力だな。肩に力が入っていると速いスタートは切れないぞ」)


深く、

ゆっくりと、

呼吸をしながら、

徐々に脱力していき、ベストポジションを目指していく。



高まる集中力。


大きく深呼吸をするたびに、


深く、


深く、


沈んでいく。



そろそろ来る。




号砲とともに、男子1年1500mの選手25名は一斉に走り出した。


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