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第6話:『追い込み』と『逃げ』

「大会にエントリーすんで」


顧問からそう教えられたのは、記録会が終わって1週間くらい過ぎたころだった。

どうやら跳躍・投擲種目と違い、短距離・長距離種目は学年ごとで種目が分かれているらしい。

前回、俺が出場した記録会では学年の区分けはなかったため、完膚なきまでの実力差を痛感することになった。

しかし、大会の同種目に出場するのは1年生のみだ。ほぼ条件は同じ。断る理由はない。


大会で勝てる可能性が出てくれば、練習へのモチベーションも高くなる。

あと2か月でどこまで伸ばせるか。

ここからは時間との闘い。

そして、自分との闘いだ。


「長距離における戦術を、お前に教えたるわ」


そう言って、顧問はさまざまな戦術を解説してくれた。


長距離走における戦術は大きく分けて2種類。


まず、最終局面まで先頭の後ろで耐え、ラストスパートで巻き返し1位を取る方法

『追い込み』

そして、序盤から最高速を維持し続けそのまま1位でゴールする方法

『逃げ』


「『追い込み』のメリットは、トップの後ろにつくことで風の抵抗を減らせ、体力を温存できることやな」


「ということは、体力に自信の無い俺は、『追い込み』戦術のほうがいいということですか?」


ブランクでの体幹トレーニングをしながら、俺は顧問に質問する。

顧問が答えるには、長距離走初心者には『逃げ』をお勧めするとのことだ。


「トップアスリートの世界では、『追い込み』の展開が多い。しかし、スパートで加速するには積み上げてきた走力が必要不可欠。」


崩れてきつつある俺のブランクを指摘しながら、続けて顧問が言う。


「お前は長距離走に関しては素人。運動センスはそこそこありそうだが、長距離走はトレーニング量がものを言う競技。同じ戦術を使えば負けるのはお前や」


顧問の説明によると、『追い込み』と異なり『逃げ』の戦術に必要なものは単純で、

最高速度と最高速度をレース終盤まで維持する技術とメンタル。


終盤での加速を得るためには長い間のトレーニングが必要だが、

減速しないようにするだけなら走るコツをつかむだけで実現可能だそうだ。


「2か月という短い期間で戦えるレベルのタイムを出すには、『逃げ』戦術を成立させるためのトレーニングが最も良いっていうわけよ。」


なるほどと顧問の説明に感心する。

確かに短期間で長距離選手として戦えるようになるには、普通の戦術ではダメだ。

俺は今まで全くトレーニングなどしてこなかったのだ。

他の選手が採用しない戦術をやり通して、ようやく互角に戦えるラインだろう。


だが俺はこの時気づいていなかった。

顧問の最後の言葉の真意に。

顧問が最後に言ったのは「短い期間で強くなるには、『逃げ』のトレーニングが最も""良い""」ということだ。

顧問は決して、""楽""などと言っていないことに。




そこからは、いままで経験したことのない苦しい時間だった。


なにせ、逃げを成立させるために必要な要素は2つ。

"最高速度"と"疲労に耐える技術"

それら2つを磨き上げることができて、初めて戦術が使えるのだ。


特にレース終盤でもフォームを崩さない技術。

この技術の練度がそのまま勝率に影響するといってもよい。

レース終盤の疲労状態を疑似的に再現するために、トレーニングでさまざまな刺激を与えられる。


ある日は、短距離組が普段している筋トレとダッシュをした後にジョギングで長距離をひたすら走る。

ある日は、全力で走った後に軽くジョギングで休憩し再度全力で走る。

ある日は、1kmごとにペースを上げながら走る練習。

これらの練習を行いながら、フォームの改善に着手する。


1週目は散々だった。全身の筋肉痛に襲われる。

下半身だけの筋肉痛では済まない。

腹筋や背筋、内臓まで筋肉痛になっているような感覚になる。

しかし、筋肉痛の状態でも練習は止めない。


1か月経って、ようやくすべてのメニューを予定通りにこなせるようになる。

人間の身体とは不思議なもので、どんな苦しい練習でも徐々に慣れてくる。

筋肉痛が治る前に無理やり身体を動かしていても案外と動けるものだと気づくようになる。

もちろん自分自身が燃えているような熱さと引き換えではあるが。


そうして練習を続け、記録会からおよそ2か月が経過した。

おそらく、ここまでにできることはほとんどやったはずだ。


9:00出走の男子1年1500m走。

俺のデビュー戦の始まりである。

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