次の日の放課後、部室で俺はさわやか先輩に、長距離走組の練習はどこでやっているのかを尋ねた。
返ってきた答えは「長距離走を専門にしている人は今はいない」ということだった。
さわやか先輩は語ってくれる。
「3年ほど前までは長距離走を専門にしている先輩がいたらしいけど、今はだれもやっていないね。
冬場の練習では体力づくりの一環としてみんなで長距離を走ることはあるけど、
夏の大会で長距離走を選択するのは今のチームではいないかな。」
ムキムキ先輩が、着替えながら俺たちの会話に混ざる。
「長距離を試してみたいなら、顧問に言ってみたらいい…あの人はもとは長距離のコーチだから…」
確かに、長距離走で先輩がいないなら、顧問に相談するしかない。
でも大人に声をかけるのは緊張するな…。
だからといって避けるわけにはいかない。
俺は、顧問に長距離走の練習を体験させてもらいたい旨を伝えた。
顧問からは長距離の練習に体験と呼べるものは特にないと言われ、いったん普通の練習をすることになった。
熊切中学校陸上部は、まず全員でウォーミングアップを行い、追加のストレッチと筋トレ、そこから基礎体力を鍛える50m程度の流しランニングをした後にそれぞれの分野の練習に移動することになっている。
今日は俺が初めての練習ということで、顧問から直々に基本的なトレーニング方法を教えてもらうことになった。
「とりあえず長距離走で初めにやらないとアカンことは、長距離を一定ペースで走り続けることや。というわけでストップウォッチは持ったな?」
俺は右手にストップウォッチを持つ。使い方もだいたいわかるので、次に進む。
「そしたら今日は5km。このグラウンドは1周200mやから、1分を切るペースを目標に走っていこう。
細かいことは走りながら教えるから。さあゴー!」
唐突な展開に戸惑いずつもとりあえず走り出す。
1周60秒がどのくらいのペースかわからないので、だいたい4分の1くらいごとにストップウォッチを見ながら合わせていく。
「走り方がブレブレだぞー。合わせに行くんじゃなく一定ペースで走るんや。リズム刻めー」
グラウンドの真ん中のほうをぐるぐると回りながら、顧問は俺に向かって叫ぶ。
リズム…リズムか。リズムを意識しながら3周ぐらい走ると、ペースが59.5秒前後で安定してきた。
「いいぞー。次はフォームだ。顎を引いて腰の位置を高く保てー」
顎を引くのはすぐに理解できたので修正する。けれど、腰の位置を高くというのがすぐに理解できない。
試行錯誤していると、さらに指摘が飛んでくる。
「足の着く位置が前すぎるー。できるだけ真下を意識しろー」
真下に足をつこうとすると窮屈さを感じる。
窮屈さを解消するために足を伸ばせば、自分の視点がほんの少しだけ上になる。
そうか、これが腰の位置を高く保つということか。
前の指摘をようやく理解できたところで、あることに気づく。
腰の位置を高くしたことにより、出せそうなスピードは上昇した。
それと同時に負荷も上昇している。3km近く走っていることによる疲れもあることにはあるだろうが、そのレベルじゃない。
自分が今までどれだけ適当に運動をしていたのかを思い知る。
走るということはこれほど神経を使い、筋肉を使うものだったのか。
体が内側から燃えている。熱い。上着を脱ぎ捨て、引き続き走る。
ペースはぎりぎり60秒を切っているが、このままではペースが落ちそうだ。
もし、俺が物語の主人公なら、ここは最初の山場。
彼らなら現状の実力が足りなくても最低限ぎりぎりのところを突破していくだろう。
そんな主人公たちに負けるわけにはいかない。
そうやって自分を奮起させながら、ペースを維持する。
理想的な自分自身をイメージし、その自分の動きをトレースしていく。
フォームは崩さず、冷静に、それでいて心は熱く。
そうやって、5kmを走り切った。全体で24分56秒。
結局3kmを超えたあたりから1分を切れない周回が増えてきて、最初のペースの貯金のほとんどを食いつぶした形となった。
スタートラインに立った最初の時点でもっとうまくやれると思っていたので、これはショックだ。
膝に手をついて呼吸を整えていると、指示が飛んでくる。
「呼吸を整えるときは歩けー。完全に止まったら筋肉が固まってまうぞー」
呼吸を整えながらウォーキングをする。
まだ体の中が燃えているようだ。でもなんでだろう。不思議と苦しくはない。
皮膚の下で血が回っているのを感じる。
外界の熱と体内の熱が混ざり合って輪郭がぼやけているような。
あるいは体の熱によって世界と自分との境界がはっきりしているような。
相反する二つの感覚のどちらも正しいような不思議な感覚だ。
その後、ウォーキングで1周回った後に30mダッシュを5本して練習は終わった。
帰宅後、風呂と宿題を終わらせて、自室で物思いに耽る。さて、どの種目を選ぼうか。
昨日と今日とで短距離系、長距離系、跳躍系と投擲系のそれぞれを試させてもらった。
どれが一番良かったかというと難しい。インパクトだけで言えば、短距離走だと思う。
全身が一体となって最速へと加速していくあの感覚は、おそらく短距離走にしかない魅力だろう。
跳躍と投擲も先輩たちはいい人で、楽しく部活をできると思う。
けれど、俺の3年間を一番充実させられそうな種目は長距離系だ。
爽快感は少ないけれど、風を切り裂いて走り続けるのは気分がいい。
内側から燃えているを通り過ぎて、自分自身が炎になったような。灼熱。そう、あれは灼熱だ。
いい響きだ。俺の中学時代を表す物語のタイトルにふさわしい。
それからも様々な考えを巡らせる。
熊切中の陸上部には長距離で頼りにできる先輩はいない。
競い合えるのは自分自身とタイム上でのライバルのみ。
鍛えるための練習環境としては、有利な要素はあまりない。
それでもあまり迷わずに長距離系を志望する。
マイペースで進めたい俺にとっては実にぴったりの環境だと思う。