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3話 羊雲

 モニカ教論の手によって聖堂の扉が開かれると、そこには私が夢にまでみた光景が広がっていた。


「きれい……」


 思わず口に出てしまうほどだった。

 白と青を基調としたステンドガラスからは純真で潔白な印象を受け、不思議とここが神の御前であるかのような感覚に陥った。自然と普段よりも肩に力が入る。

 この聖堂は縦長という構造であり、左右の木製の会衆席かいしゅうせきと白亜の支柱が均等に並べられている様は、最奥にある聖母像の存在感を一層強めているようだった。聖堂と言うよりは、教会をイメージした方が構造的には近いかもしれない。

 創立65年と聞いていたから、ホラー映画などで出てきそうなボロボロの教会をイメージしていたが、一度改修でもされたのだろうか、まるで結婚式場の様だった。


「流石はお嬢様学校っていったところだよね。どことなく場違いな感じがしちゃって居づらいよ。でもこれは……」

「見事だ。君もそう思わないかい?」


 誰に向けたのかわからないそれは、静まり返った聖堂内に響き、やがて沈黙と融け合った。

 これといった反応がないことに違和感を感じながらも声のした方向を見てみると、まるで吸い込まれてしまうのではないかと思わせる程に黒い瞳が覗いていた。目が合うと、彼女はニヤリと口角を少し上げ、腰にかかるまでに長い栗色の髪をなびかせながら小走りで駆けてきた。


「このまま誰も反応してくれないかと思ってたよ。流石は良家の子女様たちだ。やっぱりこういう雰囲気には慣れてるのかね」

「誰に向かって話しているのかがわからなかったから、みんな反応できないだけだったんじゃないかしら……」


 実際、私も反応したというよりは確認しただけだあったし。


「誰かに向けたわけじゃない。誰でもよかったんだ。そしたら君が振り向いた」

「たまたまで引っかかったのね……私」

「悪かったよ。私は東口 綾乃とぐち あやの。君はたしか遅れてきた……えと……」


 ごめん、ぼぉっとしてて聞いてなかった。失敬失敬。右手を額に当てながら少しはにかんだ彼女からは、どこか懐かしさを感じた。

 中学生時代、教室の隅で毎日他愛のないことで笑い合っていたあの子達みたいだ。

良家の子女、いわゆる「お嬢様」が多いこの学院の中で初めて「普通」の女の子に出会うことができたのだ。「普通」のありがたみって、失ってみないとわからないものなのね。


「遅れたことも忘れていてほしかったわ……礼。倉實礼」

「あんなの、忘れる方が難しいよ。まあ、よろしく。君みたいな人とファミリアになれたらきっと毎日楽しいだろうね」

「さすがに毎朝迷ったりはしないわよ」


 さすがに、毎日教室の場所がわからなくなるほど方向音痴ではない。そもそも、迷ってなんかいないし。


「私以外にも一般家庭勢がいてくれて助かったよ。私、気が大きいタイプだとよく言われるんだけどその実、心はか弱い女の子でね、これでもいまこうして君に出会えるまでは不安で仕方がなかったんだよ」


 体にありったけ貯めた緊張や不安を吐き出すように、彼女のみずみずしい薄桃色の唇は、激しくステップを踏むようして踊る。


「とてもそういう風には見えないけどね。東口さん、演技派だね」

「ははっ、演技派だなんて、良いところを突いてくるね。もう少しお話をしていたかったけど、そろそろ開式の時間だ。そろそろお暇させていただくよ」


 ――今度合う時は君の話を聞かせておくれよ。

 背中を向け、軽く右手を振りながら去る彼女からは春の匂いがした。




 聖堂で行われた入学式は、何もかもが新鮮だった。式前の礼拝、上級生による讃美歌の合唱、聖書の朗読。

「初めて」の供給過多は体に悪い。

 教室に戻り席に着いた途端、どっと疲れが全身にのしかかった。机に突っ伏すような形で背中を丸めていると、


「だいぶお疲れの様子ね」


鈴の音のような澄んだ声が私の耳をそっと撫でた。

 見上げてみるとそこには、林檎のように赤い縁の眼鏡のレンズを丁寧に拭いている貴澄さんの姿があった。外見的な幼さに唯一ストッパーとしての役割を担っていた眼鏡が外された今、彼女を一言で形容するならば咲きかけの花の蕾のように幼く危うく見えた。

自分でも失礼な想像をしてしまっていることはわかっていたので、彼女からそっと目を逸らしながら口を動かした。


「朝はどたばたしていたし、ここに来てからは初めてのことだし」

「新しい環境に新しい作法、郷に入っては郷に従えとは言うけれど、これは慣れるまでには時間がかかりそうね」

「ほんと、別世界に来たみたいよね……こんなにただの机と椅子が愛しくなるなんて、思ってもなかったわ」


 私もこれには同感だった。いま一度ぐるりと教室を見渡してみるが、依然通っていた中学校となんら大差ない作りだった。

(年季の入った教卓、不均一のチョーク、机の傷や木の匂い。懐かしくて、どこか暖かい)


「私はこの教室、嫌いじゃないわ。木の暖かみに包まれている気がして安心できるの」

「倉實さんは森林浴とかがお好きな人なの?」


レンズを拭き終えた彼女は眼鏡をかけなおすと、満悦な表情を浮かべながら問いかける。


「祖父母の趣味がピクニックだったから、幼いことによくいろんな森に連れて行ってもらったりしていたの。その影響で好きになったのかもしれないわ」


 幼いころの記憶が蘇る。早くに母を亡くし父親もいわゆる転勤族でなかなか会えなかった私は、小学生の頃から祖父母の家に引き取られて育てられてきた。祖父母は私をまるでわが子のように愛してくれていたおかげで、友達はいなかったが暗く辛い学生生活というものは経験することはなかった。

 そうだ、と何か思いついたような表情を浮かべた貴澄さんは


「倉實さんがよかったらなのだけれど、学校生活に慣れてきたら、校舎裏の森を一緒に散歩してみませんか? 」


 一緒に。ありふれた言葉だが、これだけ私が求めていた言葉は他に知らない。


「貴澄さんと、一緒に……」

「えと、もしかして1人の方がよかったかしら……」


 申し訳なさそうな顔でこちらを窺う彼女に、私はあわてて首を振った。


「い、いえ! むしろこちらから貴澄さんにお願いしたいくらいで、その……友達と一緒にっていうことはしたことがなくて、うれしくて……」

「そう、よかったぁ……! じゃあ詳しい日程とかはまた後日一緒に考えましょう。楽しみね、倉實さん! 」


 はじめてした、友達との約束。

 辛く苦しい学校生活を経験することはなかったが、楽しく幸せな学校生活も経験したことはなかった。

 今まで灰色のキャンパスの様だった私の学生生活に、彼女は彩りを添えてくれた。

 私も、彼女のために何かがしたい。私にはいったい何ができるのだろうか。彼女みたいに愛嬌もなければかわいげもない。わたしに、できることは……

 思いふける私の思考を遮断したのは、教室のドアの開く音だった。

 どこまでも黒い修道服を着たモニカ教諭は、教卓に立ち生徒を一瞥してから口を開いた。


「改めまして、皆さんのクラスを受け持つことになりました、モニカと言います。さて、さて、式が終わったばかりですが、これからファミリア選考の個人面談をさせていただきたいと思っています」


 学校側が”友人”を作ってくれる制度。本当にそれは胸を張って友人と呼べるものなのだろうか。友人を持たなかった私にはいくら考えても答えのでない問だった。今は考えても仕方がない。


「ほら倉實さん。ゆっくりするにはまだ早いらしいわよ? むしろこれからが本番かも」


だって、と続ける貴澄さん

ふと窓越しから空を見上げると、そこには不規則に並ぶ羊雲が広がっており、期待と不安がちりばめられている私の心を映したようだった。


「3年間、ずっと一緒の友達が決まるのだもの!」


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