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第3話 君に映る私と、わたしに映るあなた

「言い過ぎたかな……」


 あの日から3週間がたった。平日の昼間から明かりもつけずに家でダラダラしていることに罪悪感を覚えるが、今はこうしていたい。雨でもないけれど、日を増すごとにむくむくと膨れ上がってくる感情のせいで外に出る気にもなれない。

 とはいえ、なにもしないということを続けるのにも体力が要る。煙草でもやっていたらベランダで一服でもできたのだが生憎そんな趣味もなく、とりあえずケトルに水を貯めようと思う。

 充分だらけていたはずだけど水面に映った私は眠そうな顔をしていた。まあたしかに、ここ1週間のことが全部夢だったらいいのになんてことは思ってたけど。掛けられた時計が目に入ると、短針はランチにしては早くモーニングにしては遅く、講義に出るには遅すぎる時間を指していた。今日の自主休講は致し方なし。

 お湯が沸くまでまた手持無沙汰だ。することがないとこの間のことをついつい考えてしまうから、今はこの時間が辛い。

 あの時照美は多分泣いていた…… と思う。そう見えたのは雨のせいかもしれないけど、それ以上に多分、私のせいだ。

 私達のルールその2。この関係はあくまでも形だけ。必要以上に踏み込んではいけない。

 それにしても、どうして私はこんなルールを作ったのだろう。照美は女性であり私も女性だ。こんなルールを作らなくても必要以上に踏み込んでくるはずがない、とあの頃の私は思ってたはず。実際どうだったであれ。まさか、

 ……自戒のつもりだとでもいうの? 

 自分への問いかけの答えが返ってくる前に、お湯が沸くよりも前に無機質な電子音が部屋中に響いた。

 ドアホンの音は正解の音のようにも聞こえて、タチの悪い手の込んだいたずらのような気がしてしまって、来訪者には悪いが扉を開ける気にもならなかった。そもそも、平日のこんな時間に連絡もなしに来るような人に心当たりはない。どうせロクなことがないと思い、カップの準備をすることにした。

 お湯を注ぐところでまた耳障りな電子音が響いた。明かりがついてないことに気づいていないのか、はたまた電気メーターで気づかれているのか。どちらにせよ、私の気持ちには気付いてくれないらしい。

 そんな願いも聞き届けられないまま3度目の電子音が響いた。二度あることは三度あるという言葉があるが、仏の顔も三度までという言葉もある。

 足音を殺してそっと近づきドアスコープを覗いてみると、ここ3週間見なかった顔が曇天よりも曇った表情でそこに立っていた。


 (て、照美っ!?)


 これが夢じゃないと教えてくれたのは、頭に響く鈍痛だった。

 鉄の扉は私を起こすには十分すぎる硬度を誇っていて、目覚めは最悪。眠そうにはしてたけど起こし方っていうものがあるでしょ。


「夕、夕、やっぱり居るの?」


 気づかれてしまった以上これ以上居留守を使うわけにもいかないし、そもそも照美を追い返す理由もないけれど、この鈍痛がどこかに行くまで待ってほしい。

 大きく深呼吸を1回2回、3回。2回の時点で鈍痛はどこかに行っていたけど、心の準備も兼ねて余分にしておいた。

 ノブに手をかけ開けた先にいたのは雨に濡れた猫みたいな彼女。


「お、おはよう」

「おはよう」


 しばらくの間、ふたりの間には沈黙が転がっていた。まさか、あいさつのために来たわけでもないだろう。なんて考えてからもしばらく沈黙が続く。お互い何か言いだそうとはしてるけど、最初の一言を譲り合ってるみたい。


「とりあえず……」 

「お、お話がっ! ……あります。」


 上がっていきなよ。と続けようとした言葉はボリューム調整を間違えたオーディオみたいな大きな声にかき消されてしまった。


「う、うん。じゃあとりあえず、あがりなよ」

「……おじゃまします」


 なんとなく居心地が悪くて帰りたい。自分の家のはずなのに。

 物静かな空間は一転して重苦しい空間に成り果てた。私も彼女も向こうが口を開くのを待っていて、カップひとつ取り出す動きにも自分のことながらなんとなくぎこちなさがあった気がする。


「熱っ! 」


 半ば事故のようなものだったけれど、先に口を開いたのは私。


「だっ、大丈夫? 」

「あ、あぁいや、大丈夫」


 口を開けたら少しは楽になったけど、それでも居心地の悪さが消えたわけではない。開けたら開けたで引き立つ無言の間が辛い。

 気持ちの悪い空気ではあれど吐き出す言葉もなくて、手でも動かせば少しは忘れられると思いながらふたつ目のカップを用意していると

「さ、砂糖もできれば、お願いします」とお声がかかった。

 どうしてさっきから敬語なのかということは置いておいて、長く使ってなかった角砂糖をひとつ、甘党っぽさそうなのでおまけにもうひとつ、茶色の中に沈める。

 昨日とは違う香りに顔をしかめながらも案外悪くないと思えてしまうのは、自分でも知らないうちに糖分を求めていたからなのかもしれない。




「お、おはなしがっ! ……あります」


 とは言ったものの、いざ彼女の前に立ってみるとうまく口が回らない。言いたいこと聴きたいことは山ほどあるのに。

 急に帰ることはなかったんじゃないの? どうしてあんなこと言うの?

 わたし達は、幸せになれないの?

 彼女の前に座った今でも言い出せないで、ただ目の前に置かれたカップに目を落とすばかりだった。


「うちに来てまで話さなきゃいけないことなの? 」


 そういうわけじゃないけど、正直に言ったら帰されそうな気もして、


「講義終わりに話そうと思ったら夕、居ないんだもん」

「抜け出してきたの? 」

「大丈夫、ちゃんと学生証は通してきたから」


 抜かりはない。


「いや、そっちのほうが問題だと思うけど……」


 苦いものでもの飲んだような顔をした彼女を見たのは久しぶりな気がする。とはいっても最後会ったのが3週間前だから、どんな表情でも久しぶりなんだけど。


「そういうことをしてまでもしたい話があるってこと」


 本当は気になって授業どころじゃないから抜け出してきたのだけど、このさい大義名分にしてしまおう。それで良い、それが良い。


「夕はこのあいださ、言ったよね。わたしを幸せにできないって。どうして? 私達が女同士だから? 」

「理由のひとつではあるけど」


 全部じゃない。と続きそうな言葉に彼女らしからぬ歯切れの悪さを感じる。


「わからなくて良いって言われた時、すっごく悲しかった」

「……ごめん。あのときは少し、感情的になってたかも」


 お互いなんとなく相手の顔を見れなくて、カップに映った自分を見つめるばかりだった。あの時の自分を思い返すかのように。


「ねぇ。わたしたち、これ以上仲良くなれないの?」

「そんなことっ……」


 ないと続いてほしかったけど、また言い淀んだ。一瞬見つめあった瞳は弾かれるように逸れて、またカップの自分を見つめるばかりだった。

 無言の空間はこのあいだのとは違い、心地よさなんてかけらもない。注がれたものをすする音だけが部屋中を乱反射して、嫌に大きく響く。


「どうして私なの? 知り合って数か月の、知ってることより知らないことのほうが多い私なの? 」


 夕の言ってることはもっともだ。知り合って半年も経ってなくて、好きな色も食べ物も、先生になりたい理由だって知らない。けれど。


「好きって、言ってくれたから」


 そう、それだけ。


「ただ好きだからっていう理由で先生になりたいって話した時、幻滅されちゃうかもって思ってた。もしかしたら、ずっと話さないままのほうが良かったのかもって。それでも夕は受け入れてくれた。気持ちを大切に持ち続けて育むことのできる照美が、好きって」


 好きな理由なんて、ひとつあれば良い。


「勇気を出して話してくれてたんだね」


 でも、と続き


「それなら尚更私は照美を受け入れられない」


 ここばかりは続く言葉なんて欲しくなかった。声色に混ざっている優しさがより一層わたしの胸を締め付けていて痛い。


「……もうどうしてなんて言わないけど、わたしに納得できる理由を頂戴? 」


 諦められる理由を探している自分がどこかにいたのかもしれない。それが今ひょっこり顔を出して、聞きたくなかったその理由を彼女の口から聞こうとしている。この胸の痛みは傷つかないと、きっと消えない。


「昔、好きになった人のことが忘れられないんだ。卑怯にも私はその影を、君に重ねていた…… のかもしれない」


 一呼吸おいて顔をあげた夕は、わたしとしっかりと向き合いながら話し始めてくれた。


「高校生の頃、先生を好きになったことがあるんだ。同性の。私の通ってたとこはさ、卒業したらとりあえず就職みたいな考え方の学校だったんだよね。田舎だし、地元で生きていくんだったら高卒で十分だって」


 私自身も勉強大好きってわけじゃなかったしね。懐かしむように語る彼女はわたしを見ているようで見ていなくて、遠いどこかを見つめているようにも見えてしまう。


「やりたいこともなかったし、その考え方には反対してなかった。とりあえず卒業したら働いてなんとなく生きてくんだろうなぁって。そう思いながら過ごしてたら3年生の春に、出会ったんだ。新任の国語の先生でさ、サキ先生っていうの」


 夕が今までずっと想い続けていたその名前を今、初めて聞いた。


「勉強を教えてもらうという口実でお話ししに行ったのがきっかけ。歳の近い先生なんて周りに居なかったからさ、先生に興味があって。私達と同じ目線で話してくれるからわかりやすいし、知らないことをいっぱい知ってる先生は、魅力的に見えた」


 本当に好きだったんだなぁ。生き生きと話している彼女をみてそう思ったのと同時に、胸の内が少し冷える感覚を覚える。


「授業もおもしろくて、次第にもっと勉強がしたくなって大学に行きたいって思ったの。最初は人文とかそこらへんで探してたんだよね。でも担任にそのことを話したら猛反対されちゃってさ、そもそもの実績もないし、この時期に言われても困る。どうせポッと浮かんでパッと消えてくような一過性のものだろうって。今思い返すと当たり前の反応だと思うけど」


 たしかに先生の言っていることは間違ってないかもしれないけど、それでも否定したい気持ちがわたしにもあった。それでも、わたしがもしその先生だったらどう話してどう導いてあげられたのかは、まだわからない。


「サキ先生だけは違うって言ってくれて、彼女の心に伸びた芽を摘んではいけない、子供心に浮かんだそれを大切に育んでいくことこそ私たち教師のやるべきことだって、そう言ってくれたの。その日の夜ひとりで泣いちゃってさ。多分、初恋だったと思う」


 初恋だったと思う。その声色が震えていたのは、いままで見せようとしてこなかった、見せる必要のなかった自分を見せてくれているからなのかもしれない。他人に自分をさらけ出すのは怖い。そんな気持ちがいたいほどわたしにも伝わってきた。それが好きな人になら尚更。


「その日からサキ先生は付きっきりで私を見てくれるようになったの。そうしてもらってる間にだんだんと先生の背中を追うようになって、教育文化学部のあるこの大学に決めた。そこまで本気ならっていうことで他の先生方も協力してくれたけど、進路も含めてやっぱり一番お世話になったのはサキ先生だったかな」


 それでさ、と続き


「卒業式の日にね、告白しようと思ってたの。まあ結局言えなかったんだけど。それでも代わりに聞いたことがひとつあって」


 ――どうして先生は、先生になりたいと思ったんですか?

 そしたらさ、

 ――知らないことを知れる学校っていう場所が好きだったから、生徒達にも私の好きなこの場所を好きになってもらいたいって思ったから


「なんて言ったんだよ。サキ先生も好きだから、好きになってもらいたいから先生になったんだって。照美の言葉を聞いたあの時から、私は先生とどこか重ねちゃってたのかもしれない」


 わたしと先生を重ねていた理由。夕がわたしを好きだと言ってくれた理由。そこにあったんだ。


「照美は私のことを真剣に見てくれているのかもしれない。それは嬉しいよ。でも、私は照美を照美として見てなかった。サキ先生というレンズを通してしか、君を見てこなかったんだよ」


 嫌な女だろう。と付け加える彼女を否定したかったけど、吐き出したい気持ちはたくさんあるけど、うまく言葉が見つからない。


「勝手に照美と重ねてさ、変なルールまで作ってちょっと特別になってみたり、自分で自分が嫌になるよ。だから私は君を幸せにはできない。私なんか、選んじゃダメなんだ」


 私なんかなんて、言わないでほしかった。こんな話を聞いて、諦められるわけがなかった。夕は自分をよく知っていて、でも嫌な部分しか見てなくて、嫌っていて。


「飲んだら、今日はもう帰りな」


 言葉の代わりに瞳から気持ちが溢れてポロポロと零れる。なんで優しい声でそんなこと言うかな。こんな顔しに会いに来たわけじゃないのに、また笑い合いたくて来たのに。


「ずるいよ。突き放しといて、なんでそんなに優しい声で話しかけてくるの」


 沈黙が答えだと言わんばかりに、そこには無音の空間が広がっていた。


「帰る前にわたしもひとことだけ、夕に言いたい」

「なに?」


 ルール4、必ず幸せになること。これはわたしだけじゃなく、わたしたちのルールだ。


「わたしは夕に、自分を好きになってもらいたい。わたしはやっぱり夕が好きなんだよ。知らないことのほうが多いかもしれない。けど、夕だって知らない夕の良いところ、たくさん知ってる。知ってるよ」


 だからさ、


「これ以上自分を嫌いにならないで。私の好きな夕をこれ以上、嫌わないで」


 温くなったそれを一気に飲み干して鞄を持ち、背を向けて歩き出す。


「照美」

「なに?」


 歩きながら背中越しに答える。夕が今どんな顔をしているかはわからない。


「私は私を好きになるためには、どうしたらいい?」


 そんなの――


「夕のことが好きな私を、好きになればいいと思う」


 助言0私欲10割の回答をしたところで指に熱が伝わり、絡まり、引き留められた。言ってたこととやってることはまるでちぐはぐだけど。


「帰りなって言われた気がするけど」

「私と一緒に居たら、嫌なところだって見えちゃうかもしれない」


 わたしの言葉なんて聞いてない。


「その倍良いところを見つければいいだけの話じゃん」

「いつかそのことに疲れてしまうかもしれない」

「疲れたら立ち止まって、一緒に休憩しようよ」

「私、自分を好きになれるかな」


 誰にだって幸せになる権利はある、わたしにも、貴方にも。

 涙を拭いて振り返るとわたしは、今できる精一杯の笑顔を作った。うまく笑えてるかな。


「なれるよ。だって、貴方を好きなわたしが隣に居るんだもん」


 濡れた瞳で彼女の輪郭はうまく捉えられなかったけど、わたしを包んだ彼女の腕が、指が、身体がその輪郭をはっきりと映し出してくれていた。





「と、いうことで」

「わたしたちは晴れて本当の恋人となりました」

「これ、誰に向けての表明? 」

「わたし達に向けてです」


 2杯目を注いでテーブルに戻った頃には、彼女に瞳にも頬にも涙はなかった。


「ということで、あれ返して」

「あれ? 」


 アレで通じるような関係にはもう少し時間が必要なんじゃないかと思うけど……。


「指輪。7号のやつ。私に良い人ができたら返してって、言ったよね」

「……酔ってたのによく覚えてたね」


 私ですら忘れかけてたことをよく覚えてる。化粧ポーチの中に閉まっていた7号の指輪は、この間見た時より輝いているように見えた。


「じゃあ、はい」


 言われた通り差し出したけれど彼女はなぜか受け取ってくれなくて、もしかしたら私はなにか試されているのかもしれない。


「ちゃんと元の位置に戻して」


 と言いながら左手を差し出してくる照美をみて、ようやく理解できた。けど…… そこはまだ早いんじゃないかなんて思うけど、それを言ったらまた面倒なことになりそうなので、黙って元の位置にはめ込んだ。

 昨日とは違う香りを心地よいと思えてしまうのは、君が隣に居るせいなのかもしれない。


似ている君は今日も笑む 了


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