婚約破棄が成立し、項垂れる陛下に完璧な淑女の礼を披露してから謁見の間を出た私はそのまま馬車に乗り込みました。やはり多少緊張していたようで馬車に乗った途端、安堵で体の力が抜けてしまいましたわ。
「終わりましたのね……」
誰に言うでも無くそう呟くと「そうですね」と馬車の入り口にハルベルト殿下が顔を出されたのです。
「あ、ハルベルト殿下!申し訳ありません、私ったら殿下をお待ちもせずにひとりで……」
「いいのですよ、令嬢のあなたが国王を前にして戦ったのです。そして自分を陥れようとしたあのふたりのために王子の頬を打つなんてなかなかできるものではありません。ご立派でしたよ。でも、あの時手首を痛めたでしょう?見せてください」
「えっ」
そういえば、手首を捻挫したのでしたわ。気が緩んだからか思い出したからか、急に手首がズキズキと痛み出しました。よく見れば赤く腫れています。
「やはり、腫れていますね」
そう言ってハルベルト殿下は私の手首に湿布を貼り器用に包帯を巻いてくださいました。まさか手首を痛めた事に気付かれていたなんて思わなかったので驚きましたわ。そして包帯を巻いて下さる時にハルベルト殿下の手が私の手に触れていて、それが嬉しいような恥ずかしいような……いえ、ハルベルト殿下は私がケガをしたから心配して治療して下さってるだけであって他意なんかありませんわ。こんなことを考えるなんて私ったらなんてはしたないのかしら。と顔に出ないように自分を戒めました。
包帯が巻き終わりお礼を言って手を引っ込めようとすると、ハルベルト殿下は目を細めて包帯の巻かれた私の手首を見つめました。そして、なんと、その包帯の上に唇が一瞬触れたのです。
「あ、あああああ、あの、は、ははははは、ハルベルト殿下?!」
混乱のあまり舌が縺れる私の姿を見て手を離すと、ハルベルト殿下は優しく微笑みながらこうおっしゃられたのです。
「あなたは、ちゃんと決着をつけられました。次は僕の番です。僕もすべてに決着をつけたら、あなたに逢いに行ってもいいですか?」と。
私はその意味がよくわからず「いっ、いつでもおまっ、お待ちしておりますわ!」とまた情けないくらい舌がもつれたまま返事をしてしまいました。
そしていつの間にか側に控えていたアンナと共に屋敷に帰りました。ハルベルト殿下もご一緒に戻るのかと思っていたのですが「やることがあるので」と王城に残られたのですわ。
改めてお礼をいい、窓から見えるハルベルト殿下の姿が小さくなる頃にやっとまともに呼吸ができました。
「ア、アンナ、私ったらあのような態度でハルベルト殿下に失礼じゃなかったかしら?」
あとから心配になってきてアンナに相談したのに、アンナはいつもの無表情で「枯れた花がやっと水を獲た感じだと思います」となんともよくわからない返答をされました。こっちは真面目に悩んでいるのに酷いわっ!
と、まぁ、そんな感じで屋敷に戻ったのですが……。
しばらくはお母様やシラユキ様とのんびりしてましたし、オハナミも無事に開催されましたわ。でもあんなことがあった王城へは庭とは言え行きにくかったので、それならとシラユキ様が我が公爵家の庭にもサクラを持ってきてくださいましたの。なんでも品種改良した新種のサクラで、王妃殿下のところにあるサクラより小降りで少し違うそうなのですがこれなら温室がなくても大丈夫なのだそうです。こうして公爵家に王妃殿下をお招きしてオハナミをし、とても楽しい時間を過ごしました。オハナミにぜひハルベルト殿下もお誘いしたかったのですが王妃殿下が「あら、女子会に男子は立ち入り禁止よ」とおっしゃったので諦めましたわ。
いつの間にか手首も治り包帯も外れました。でもあの時の包帯がどうしても捨てられずにいます。ハルベルト殿下のあの時の行為はどんな意味があったのかしら……と、どれ程考えても答えは出ませんでした。
そして月日は流れ、今にいたるのですわ。
その間ハルベルト殿下からご連絡は無く、今まで定期的におこなっていたお茶会も全くしておりません。それに学園に行ってもハルベルト殿下は登校しておらず、何かあったのかと思ったらなんと早期卒業なされていたのです。確かに卒業に必要な単位はすでに取得されていましたし王家のお仕事が忙しくなればその可能性もあると、もちろんわかっていました。オスカー殿下やヒルダ様たちがいなくなったからか学園で私に絡んてくる方達もおとなしくなりましたしとても平和なのですが……もしかしたら学園でお顔が見れるかもなんて思っていただけにちょっぴり寂しかったのですわ。
「はぁ……」
「お嬢様、あまりため息ばかりつかれているとまた枯れてしまいますよ」
すっかり冷めてしまったお茶を新しく淹れ直しながらアンナがそんなことを言います。
「た、ため息なんかついていないわ!私は穏やかな時間を満喫しているのよ」
「そうおっしゃられても先ほどから寝転がってばかりでお茶にもお菓子にも手をつけられてないようですが……では、もうひとり分ティーカップをご用意して参りますね」
「えっ……」
アンナの言葉に視線を動かすと、その先にはなんとハルベルト殿下がいたのです。一瞬、幻覚かと思って思わず目をこすってしまいました。
「は、ハルベルト殿下!?」
数ヵ月ぶりのハルベルト殿下の姿に驚きましたが、今日はいつもよりは柔らかいとはいえまだ日差しが強めに感じられる日なのに日傘をささずにおられたので慌てて起き上がりいつも傍らにおいている日傘を広げてハルベルト殿下の元へ駆け寄りました。いつも側にいる従者もいないようですし、なにかあったのでしょうか。
「ハルベルト殿下、あまり強い日差しを浴びられたらまた火傷してしまわれますわ。早く日陰に……」
ハルベルト殿下に触れないように気を付けながら日傘をさすと、なんとハルベルト殿下は日傘を持った私ごと腕を回して抱き締めたのです。
「……は、ははははは、ハルベルト殿下?!」
「カタストロフ公爵令嬢……いえ、セレーネ嬢。僕があなたに触れることをお許しいただけますか?」
名前を呼ばれ、抱き締められ、もう私の頭はショート寸前でした。どうしていいかわからず声が震えてしまいます。
「も、ももも、もう、ふ、触れてらっしゃいますわ……」
「では、あなたの名前を呼ぶこと、こうして触れること、あなたに愛を囁くことをお許し下さい」
そう言って抱き締める手に優しいながらも力をこめられ、私の顔がハルベルト殿下の胸に押し付けられるように密着してしまいました。
「は、ハルベルト殿下、あのっ」
「もう“殿下”ではないんです」
そう言ったハルベルト殿下は、私を抱き締めたままこの数ヵ月の出来事を教えて下さりました。
なんとハルベルト殿下は学園を早期卒業した後、王籍を返還してあらたに伯爵としての爵位を頂いてきたと言うのです。それを聞いてさらにパニックですわ。だってハルベルト殿下は第二王子で将来の国王の補佐役で、この国にとっても大切な人材ですのよ?!一体どうやったらそんなことになるのかと聞いたら「色々と」とだけ言われましたわ。色々って、本当になにをどうしたというのでしょうか。
なんでもアレクシス殿下が協力して下さったらしく、ご自分は優秀だから補佐役などいらないと言い宰相を説得してくれたそうです。その背後にはシラユキ様も控えておられたとか。ついでにオスカー殿下の再教育をご自分でなさると腹黒さヒートアップで張り切っているのだとか。
「それに、このことには母上や公爵夫人も力を貸して下さったのです。もちろんシラユキ皇女も」
「え、お母様やシラユキ様が?」
「実は、女帝会議とやらに呼び出されまして覚悟はあるのかと詰め寄られました。全てを捨てる覚悟があるものだけが、たった一つを手に入れられるのだと……だから、その覚悟を示してきました」
ふふっと笑い声を漏らしたかと思うと、少しだけ手の力がゆるんだのでそっと顔を上にあげました。するとそこには優しい瞳で私を見つめるハルベルト殿下のお顔があったのです。
「僕はもう、王子ではありません。あなたよりも立場の低いただの貴族の男です。権力もなく、体質も弱く、見た目や性格だってあまり良くないなんの取り柄も無いただの男……。それでもどうしても手に入れたかったものを手にすることができました」
「なにを、手にしたのですか?」
「あなたに、求婚できる立場です」
濃いアクアブルーの瞳に私の姿がうつり、なんだか吸い込まれそうでした。
「ハ、ハルベルト殿下……そんな、だって私は、王命の婚約を破棄したキズモノで……私なんか、ハルベルト殿下に見初めて頂けるような女では……」
「もう僕は殿下ではありませんと言ったでしょう?それに、あなたならそう言うと思ったからこそ、僕は今の立場になったんです。あなたがキズモノだとおっしゃるなら、僕は王族から伯爵に落とされた者。そんな僕がキズモノの公爵令嬢に求婚するのなら別に問題はないはずですよ。それとも、王子という立場にない僕ではあなたへ愛を伝えることはできませんか?」
「そ、そんなこと……!私にはもったいないくらいのお方ですわ!私は、私は……たぶん、ハルベルト殿下の、いえ、ハルベルト様の事を……お、お慕いしており、ます……」
恥ずかしさのあまり声の最後が小さくなってしまいます。だってもう自分の心臓の音がすごくてこれは自覚するしかないじゃないですか。たぶん、きっと……ずっと昔からそうだった気がします。
「僕も、あなたを愛しています」
再び力を込めて抱き締められ、今度はハルベルト様の心臓の音が聞こえました。それは早鐘のように音を立て、ハルベルト様も私と同じように想っていて下さってるのだとわかったのです。
「僕は“ずるい男”ですが、それでもいいですか?」
「ず、ずるい男……ですか?」
「ええ、僕はあなたの側にいるためにとことんずるい男だったんです。そのためならなんでもするようなね。僕の愛は重く苦しいかもしれませんよ?」
「……聞かせていただけますか?あなたがどれほどずるくて、その愛がどれほど重いのか……。あなたの全てを聞かせて欲しいんです……」
ハルベルト様は目を細め、片手で私の頬に触れました。初めて触れられた頬が熱くなります。
「あなたが、望むままに────」
手に持っていた日傘が傾くとセレーネとハルベルトの顔を隠した中に光が差し込み、ふたつの影が重なってうつしだされていた。