天幕を通し朝の気配が伝わる頃、暖かな何かにくるまれて目覚めると、それは愛しのご主人様、邪竜王の腕の中だった。
「ほえ……?」
たくましい胸に、やけにぬるぬるすると左の頬を寄せていたが、なんとその正体はなんとなんと自分の涎。
くわっと目を見開くミルティア。
一気に夢見心地は吹っ飛んで、ぞわぞわっと全身の毛と言う毛が逆立った。
慌てて身体を起こそうとするのだが、ご主人様の右の腕がしっかりとミルティアの右肩を抱き寄せているものだから、互いの体液でぬるぬるとなった身体をぴったり密着させた状態は、結構な摩擦と、離れたく無いと言う情動が絡んで、ぴくりとも出来なかった。
たちまち、体温が数度も上昇してしまい、紅潮した顔をそっと見上げるのだが、愛する黄金の瞳に直面し、更にその度合いを増してしまった。
≪お早う≫
≪お早うございます、マスター……≫
今朝の挨拶は、古代神聖語。一般的に、魔法の言葉と言われている、古代に失われた言語だ。大概の魔法は、その言葉の韻に隠されていて、断片的に手にするイメージでは形にする事は難しい。だが、魔法はそこかしこにまだ残っている。世界を創造した頃の、古い魔法の断片が……
≪やはり竜族の眠りは浅いのですね?≫
≪お前は良く寝入っていた様だな。意識は深く、やはり人の身は違うのだな≫
古代種の眠りは、人のそれと違うものが多い。
身体は休んでいても意識は明確であったり、より短い時間で体力を回復出来たりとそれぞれである。
ミルティアは完全に意識を失って熟睡していたのだが、邪竜王は身体を休めていても意識は明確であり、とうの昔に体力も回復していた。
そして、ミルティアが眠りから目覚めるその時まで、じっくりとその様子を観察していたのだ。
(ご主人様の前では、隠す事も偽る事も出来ないな……)
無防備な自分を見られてしまっていた自覚が、気恥ずかしさとなって少しだけうつむかせるのだが、全身全霊でこの方にお仕えするのだと決めた身には、後戻り出来ない自覚があった。
女勇者は振り向かないのだ。
≪マスター……≫
≪何だね?≫
意を決しておねだりしてみた。
≪お目覚めの口づけをしても、宜しいでしょうか?≫
≪それくらい、造作の無い事だ≫
そういうと、邪竜王はぐいっとミルティアの身体を胸の上へと引き寄せてみせた。
ぱりぱりと、乾いて張り付いていた互いの肌がはがれ、少しひりついたが、それも互いの深い情交の証。
犬の様に、四つん這いで邪竜王の胸の上を跨り、そっとその唇を重ね、離してはまた軽快に重ねてはを繰り返した。
≪ミルティアよ≫
≪はい……≫
何度目かでその動きを止め、邪竜王の手がたぷんたぷんと揺れる胸や、肩から腰の辺りへと愛撫を移す様に、目を細めてその意図を汲み取っていた。
≪私も目覚めの口づけをしても、構わないかな?≫
≪それくらい、造作の無い事だ≫
ミルティアはうっとりとした表情で、ご主人様の口真似をしてみせた。
≪こやつ……≫
≪うふふ……≫
つんつんとノックする二対の先端に、戯れる様な、淫らな腰の動きで合わせ、夕べの残滓を掻き分けるみたいにゆっくりとした所作で、互いの腰を合わせていった……
戯れが過ぎると、誰かが呼びに来てしまいそう……
今朝は、一回で我慢する事となりました。
シャワーの魔法で二人まとめて霧を浴び、びしょびしょになった所でウィンド・ホイッスルの魔法でさっぱりと乾燥させた。
ただ失敗したのは、天幕の内側に山積みにされていた羊皮紙の書類。
≪しまった~っ!≫
≪はははは……こういうのは面白いものだな≫
≪イ、インクが滲んでしまいます!≫
風に吹かれて、何枚かが舞い上がったのを、ミルティアは慌ててかき集めて回った。
「マスター……この書類、どうされるおつもりですか?」
「ん? 今度は人の言葉か?」
着るものも着ずに、そっと身を寄せ合う二人は、その書類に目を通してみた。
軍の物資をどうこうするものや、補給の申請、経費の……そんな数字の羅列を前に、邪竜王は頭をかかえてみせた。
「ん~……なんだか良く判らん……」
「この手の事務的なお仕事は、お嫌いなんですね。事務官は持たれないのですか?」
「ん? 何だそれは?」
最強の武を誇るご主人様にも苦手があるという事が、微笑ましいミルティアであったが、山積みにされた書類はどう見ても洒落にならない事態を容易に予測させた。
きゅっとそれらを胸元に抱え込み、ミルティアは半ば哀願する様にご主人様へ申し上げた。
「宜しかったら、私が代筆しても構いませんでしょうか?」
「あ、いや、その、ちょっと……」
どうも代筆という行為自体もピンと来ないらしい。
「マスターのご判断が必要な書類はその都度お伺い致しますし、そうでないものは、後でまとめてご報告いたします。マスターは軍の大きな事をお考え下さい。小さな事は、このミルティアにお任せ下されば、決してマスターのお心を煩わせる様な事には致しませんわ」
「そうか……お前がそう言うのなら任せよう」
下手をすると、軍を
どんな火の粉でも被ってみせよう。
どんな火の粉でも払ってみせよう。
例え火砕流が押し寄せて来ても、この胸に宿る想いで打ち砕いてみせる!
そう想った。
「ありがとうございます、マスター! それと……身の回りの世話をする者を、手配しても宜しいでしょうか?」
「任せる。お前が私の為にとしてくれるのは判っている」
そう言って、邪竜王は、右手でミルティアのぼさぼさの髪を撫でてから、その耳を、そのうなじを可愛がり、次第にうっとりと目を細めてゆく様を楽しみながら、今日何度目かの口づけを交わした。
つま先だったミルティアが、ぺったりとかかとを降ろす頃には、その表情はあからさまに変容していた。
意思の光をギラギラさせ、不敵な笑みを湛えていた。
【うふふ……この大悪魔ミダラー卿に全てお任せ下さい、マイ・マスター!】
【ふ……お前は、やっぱり面白いな……】
一歩下がって、恭しくも芝居がかったお辞儀をして見せるミダラー卿に、優しい眼差しを向ける邪竜王。
それだけで、ミダラー卿のハートは『はきゅ~ん』と射抜かれてしまい、その信頼に応えて見せようと心に誓うのであった。
【で、では、面白いついでに、少しお時間を戴いて、マイ・マスターには少し変った物をお見せ致しましょう】
【ほ~……】
【スケジュールに差し障りはありませんか?】
【すけじゅーる?】
またもある意味凍り付く二人であった。
◇ ◇ ◇
浅黒い肌の女がいた。
そこは、人間側の陣営にあるミルティアの天幕。
勇者ミルティアの待遇は、義勇軍の中でも良い方で、比較的大きな天幕が与えられていた。
使い込まれた鎧具足が、どんと部屋の中央に飾られ、外では愛馬の嘶きが聞こえてくる。
白いニーソックスをくいっと引き上げ、姿見の前に立つミルティアは、フリルが可愛い純白のシャツに、黒のガーターとスカート。ワンポイントで赤いリボンを襟に巻いてみた。
たっぷりとした胸元は、より強調し、昨日のファンデーションが残ってるので、それに見合う色っぽい目つきに化粧を仕上げ、一番色が鮮やかな赤い口紅を試してみる。
どこからどう見ても、ちょっといかがわしい雰囲気の侍女と言った風情だ。
「ま~こんなもんだろ」
そう言ってから、ちょっと口調を変えてみる。
「まぁ、こんなものかしら……」
最後にカチューシャをひょいと乗せ、鼻歌交じりに直してみる。
「お~い、ミルティア~! 居るんだろ~!」
天幕の外に半妖精のジョニーの気配。
「おはよ~!」
「昨日はどこへ行ってたんだよ~! 軍議がどうなったか、聞いてるか~!? 入るぞ~!」
「ど~ぞ~!」
そんないつもの受け答えをして、天幕へ入り込んだジョニーは、目をまん丸にして目の前のミルティアをつま先から頭のてっぺんまでもじろじろと眺めてしまった。
「お早う」
「お、おう……」
口元を隠し、左を向いたジョニーはちらちらと横目で見つつ、話を切り出した。
「軍議はまだまとまらない。お前は今日、出るのか?」
「ごめ~ん……ちょっと野暮用が出来ちゃって……」
髪をツインテールにまとめ始めたミルティアは、ジョニーの様子を一瞥しながら、また鏡に向かう。
「何だよそれ。まあ、時間はあるだろうけど……」
「へぇ~……」
「男でも出来たか?」
「う~ん……まあ、そんなものかな?」
「誰だよ!?」
「ジョニーの知らない人~……」
ふう~っとため息をついて、ミルティアは髪型にふんぎりをつけた。
「よし!」
「おいおい、大丈夫なのか? いざって時に、どっかにしけこんでたなんて、洒落にならないぞ!」
「その時はごめんね」
そっと手を合わせてごめんねと謝る仕草に、ジョニーは明らかに男の影を感じないではいられなかった。
よく見れば、首筋にキスマークらしき跡も幾つか。こいつは……
「その相手って、誰なんだよ? 伯爵様って事はないだろ?」
「えっとぉ~……豚奴隷が三匹と、ご主人様がお一人、信者達が250匹くらいかな?」
一応、本当の事を言ってみる。
「何だそれ? 冗談にも程があるだろ~?」
「信じて貰えないのは仕方ないわよね~……」
さもがっかりとした風情のミルティアに、ぷるぷる震える拳を突きつけるジョニー。
「この馬鹿ーっ!!」
「あほーっ!!」
明るくあかんべーで応えるミルティアは、髪をたくし上げ、襟を高く正し、とんとんと短い黒革のブーツを鳴らしてから、くるっと一回転して見せた。
「どう? 化けたでしょ?」
年甲斐の無い可愛らしさに、ジョニーもうっと来た。
何しろ、ミルティアは年に比べて見た目が若干若い気がしていた。おつむの方は、更にローティーン並の時もあったが。
「大化けだぜ。どっかの陣営にでももぐりこむつもりなら、ぶっぶー! 目立ち過ぎ!」
「いいじゃない? たまにはこういうのも?」
ウィンクぱっちり。くったくの無い笑顔で走り出す。
「じゃ、皆さんに宜しく~♪」
「お、おい! おとといは悪かったな! みんな、反省してんだぜ~っ!!」
風の様に天幕から駆け出してしまったミルティアを捉える事は無理というもの。追いかける様に声をかけるのだが、精一杯だった。
その数分後、ミルティアの姿はある軍の配給所にあった。
「おはよ~!」
「お早うございます、勇者様! 今朝はどうされたんですか?」
食事当番の兵士と気軽に声を掛け合いながら、丸いお盆で口元を隠し、うるんだ瞳で言ってみた。
「ご主人様に、お食事をお届けしなければいけないの……」
「あはははは……何のゲームですかい?」
「そういうプレイなの」
てへぺろ。
こうもなると、邪険に扱う事も出来ない。
「じゃあ、ちょっとだけ多めに分けて差し上げましょう」
「うわ~い。ありがと~♪」
そんな奇異な光景を見逃す兵士達では無く、次第に集まって来てしまう。
最後には、ミルティアを囲んだ二十人程の兵士が、口々に遠慮の無い質問を飛ばして来た。
みんな、我が陣営の女勇者に興味津々なのだ。
「誰ですか? そのご主人様って、うらやましい奴は?」
「ひ・み・つ……教えてあげな~い。きゃはっ!」
愛嬌たっぷりの笑顔で、たちまち煙に巻くと、手を振って二人前を運び去っていく。
誰と朝食を共にするのか?
たちまち、この噂話はかなりの憶測を伴い、人間側の陣営に広まってしまうのであった。
お盆片手に、次なる目標へ潜入したミルティアは、軍の補給物資である樽が山の様に並んだその様を見渡して、どれがどれだかさっぱり判らない事に困惑していた。
色んな記号が用いられているのだが、その意味を知らなかった。
「ん~~~……ま、幾つかおみやにしましょうか……」
かくして樽三つと共に、人側の陣営から勇者ミルティアの姿は再び消えてしまった。
次の瞬間には、ノドンの中庭にその姿はあった。
そこには先日から黒竜騎士団と、大悪魔ミダラー様親衛隊の化け物達が夜を明かしていた。
見れば、命令通りに黒騎士クレマシオンが罰当番で親衛隊の朝食の調理を監督しているみたいだ。六匹のゴブリンやホブゴブリンを指揮し、ああだこうだ唾を吐いてる姿が映った。
「よおよお! ご苦労さん!」
言ってから、慌てて悪魔語に切り替えた。
【よおよお! しっかりやってんだろうなぁ~!?】
ざわり。
寝起きの親衛隊の連中や、黒竜達が一斉に顔を向けて来た。
【おはよう! ご機嫌か~い!?】
【【【【【ご機嫌で~す!!!!】】】】】
まるで何かの集会が始まってしまったかの騒ぎ。
【どうしたんです? ミダラー様?】
ミダラー様の変な姿もさる事ながら、一番間近に居たリザードマンが、樽をぺたぺた触りながら訊ねて来た。
【ああ……敵の倉庫からかっぱらって来たんだが……】
右手はお盆を支えていた。
左腕を振るい、手近な樽を叩き割った。
ドンと響いて、上の板が砕けると、中から芋が転がり出て来た。それも芽が出た奴ばっかり。特有の、ほこりっぽい匂いがつ~んと香った。
【あ……駄目だ、こりゃ】
【どうしたんです?】
別のコボルトがそれを手にとってかじろうとした。
【駄目だ! 芽が出てる芋は食わない方が良い!】
そう言われると、しぶしぶ樽に芋を戻すしかない。
もう一つの樽を叩き割ってみた。
中味は塩漬けの干し肉だ。これなら良いだろう。
もう一つも叩き割ると同じ奴だ。少し時間が経ってる性か、結構匂いも色もきつめだが、食えない事は無いだろう。
【肉だ!!】
【肉だよっ!!】
【やったぜ!! 明日は葬乱打!!】
肉の登場に、親衛隊の連中は大喜びだ。
【ひゃっは~っ!!】
【おあずけ!!】
【ええ~……】
【クレマシオン!!】
早速に手を伸ばすのをおあずけして、クレマシオンを呼び寄せた。
【仮装大会ですかい?】
【ぶっとばすぞ!】
にやり笑うクレマシオンは、その樽の中身を見て、更に一つ仕事が増えてしまった事に嘆いてみせた。
【朝飯に出してやってくれ……芋は……確か本国に知恵袋って呼ばれてる方が居たよな?】
【ラズウェル卿でしょ? 四天王の……】
うろ覚えだったので、良く判らない。
【そのラズベリー卿宛に次の便で送ってくれ。南方の食料だが、北国で育つかどうか幾つか条件を変えて試して欲しいってな。こっちのと種類が違うだろ?】
【ラズウェル卿! ま、どっちでもい~んですけどね……】
【あて先、間違えんなよ。あたしゃ、もうちょとご主人様のところで用事がある】
やる気まんまんと言った大悪魔ミダラー卿と好対照なやる気ゼロのクレマシオンは、団長とその手にしたお盆を見て、やれやれと首を左右に振った。
【へぇ~へぇ~。後の事は、こっちで色々やっときますから、団長殿はスープが冷め切らぬ前に、邪竜王閣下の寝所にお戻りになって、いちゃいちゃくちゃくちゃして来てくださいな】
【判ってるじゃないか! 任せるぞ!】
ぐっと左手の親指を立てる大悪魔ミダラー卿に、嫌味が全然通じなかったクレマシオンは、がっくりうなだれてお見送りするしかなかった。
そして、唐突に大悪魔ミダラー卿のふざけたお姿は、来た時と同様に、皆の前から忽然と消滅してしまうのであった。