「ご主人様起きて下さいなー」
翌朝、ご主人様のことを起こす為に一足早く起床していた紫苑は、実親の身体を軽く揺する。
「起きないとチューしちゃいますよー」
「今起きた」
「……それは私とチューしたくないってことかなぁ?」
寝ている実親の唇を奪おうとしたが、拒否するかのようにすかさず目を覚まされてしまった。
肩透かしを食らった紫苑は口を尖らせて拗ねてしまう。
「今何時だ?」
「八時だけどチューの件は無視ですか……」
ベッドから降りた実親は紫苑の頭をぽんぽんする。
「そんなことで誤魔化されないよー」
と言いつつも満更でもなさそうに頬を緩めているので説得力が皆無だった。
そのことには触れずに、実親は凝り固まった身体を解す為に伸びをしながら声を掛ける。
「お前はもう支度終わっているのか?」
「うん。ご覧の通り」
紫苑はラブホテルのアメニティであるバスローブを着て就寝していたが、今は私服姿である。
「そうか。今日も可愛いな」
「ふふん」
実親の素直な感想に紫苑は鼻を鳴らして甘えた声を漏らす。
今日の紫苑の服装は黒の肩出しトップスに、赤と白と黒のチェック柄でスリットが入ったアシンメトリのロングスカートを合わせている。スカートはバンドマンの女性が穿いているようなロック風のデザインだ。
靴は昨日から履いている黒のレースアップショートブーツで、今日の服装と良く合っていた。
そして手首にはブレスレットを身に付けている。
かっこいい感じとセクシーな雰囲気を上手く融合させており、彼女の魅力が遺憾なく発揮されていた。
「はい、お水」
「気が利くな」
「優秀な巨乳美少女メイドですから!」
紫苑が手渡してきたのはアメニティのミネラルウォーターだ。
寝起きで喉が乾燥していたのでありがたい。
実親は胸を張って得意気になっている紫苑を無視して受け取った水で乾燥した喉を潤す。喉を鳴らす度に水分が身体に浸透していき、目が冴えていく。
満足するまで水分補給したので、次は寝汗を流してさっぱりしたい。
「軽くシャワー浴びて来る」
「行ってらっしゃーい」
ペットボトルを紫苑に預けると、彼女に見送られながら浴室へ向かった。
◇ ◇ ◇
ラブホテルを後にした二人は、インターハイが開催されている競技場までタクシーで移動する。約四分の道のりだ。
昨日少し観光した街並みを車内から眺めていると、あっという間に到着してしまった。
「ここでよろしいですか?」
「はい。大丈夫です」
運転手が駐車場に目線を向けながら尋ねると、実親は逡巡することなく頷いた。
野球場、サッカーコート、テニスコート、体育館など、その他にも複数の施設があり、広い敷地を有するスポーツパークなので駐車場も数ヶ所ある。
実親と紫苑を乗せたタクシーが停まったのは第四駐車場で、陸上競技が行われているスタジアムに一番近い場所だ。
実親が代金を払っている間に紫苑はタクシーを降りる。
「行くぞ」
支払いを済ませてタクシーを降りた実親は、スマホの画面を見ている紫苑に一声掛けると歩き出す。
「後十五分くらいで始まるね」
スマホをショルダーバッグにしまって実親の後を追い掛けて横に並んだ紫苑は、伊吹が出場する女子高跳びの予選が始まるまでの残り時間について呟いた。
「そうだな」
実親は肩に掛けている鞄を背負い直しながら頷く。
今の彼は自分の鞄を左肩に掛け、紫苑の鞄を左手で持っていた。
この二つの鞄には、それぞれの着替えなど宿泊に必要な物が入っている。
ラブホテルに荷物を置いたままにする訳にはいかないので持ち歩くしかなかったのだ。
紫苑を荷物持ちとして連れて行くという話はなんだったのであろうか……。
「今日三十度らしいし、伊吹大丈夫かな……」
「午前中はまだ良いが、日中は大変だろうな」
暑さは体力を奪うし、熱中症や脱水症状になる恐れもある。
体調管理を怠ると実力を発揮出来ない上に、最悪棄権しなくてはならない状態に陥ることもある。
だからこそ紫苑は心配だった。こうして歩いているだけでも暑いのだから。
「そういうのには慣れているだろうし、コーチも付いているから大丈夫だろ」
「それもそうだね」
スポーツをしている人はコンディション調整も抜かりない筈だ。
様子を見てくれるコーチもいる。無茶をしない限りは心配いらないだろう。
「寧ろ俺達も気を付けないといけないだろ」
「確かに……」
暑いのは観客も同じだ。
屋根で日陰になっている席もあるが、先客で埋まっている可能性もある。
それに全てのスタンドに屋根が付いている訳ではない。
「普段家から出ない黛は特に気を付けないとだね。耐性なさそうだし」
趣味が読書で仕事も自宅でしている実親は基本的に外出しない。家から出るのは学校や買い物の時くらいだ。
いつも冷房の効いた部屋にいるので、紫苑の指摘通り暑さに慣れていない。
しかも今日も全身黒の服装である。熱が籠るので尚更気を付けなければならないだろう。
ちなみに実親の服装は、パンク風のサルエルパンツにロングTシャツを合わせており、ブーツ、ピアス、指輪などもいつも通り身に付けている。
相変わらず派手な服装だが、隣を歩く紫苑の服装とは合っているかもしれない。まるでバンドマンのカップルのようだ。
「それを言われると返す言葉がないな……」
「こまめに水分補給しないとだね」
「そうだな」
耳の痛い指摘に実親は肩を竦めることしか出来なかった。
「とりあえず伊吹は予選突破出来ると良いな」
「椎葉の実力なら余程のことがない限りは大丈夫じゃないか?」
「どうなんだろうね」
如何せん二人共高跳びの素人なので憶測でしか話せない。
「私達に出来ることは応援だけだもんね」
「ああ。見守ることしか出来んな」
スタジアムに近づくほど聞こえて来る歓声が大きくなっていく。
きっとその声を背に全国からやって来た猛者達が競技に挑んでいる筈だ。
伊吹もこの歓声の中で競技に臨むことになるので緊張して余計な力が入らないと良いが、実親達が見守ってくれているとわかれば安心出来るかもしれない。
二人が直接力になってあげることは出来ないが、伊吹にとっては応援があるだけでも凄く力になる筈だ。それが親しい友人の声援なら何よりも心強いに違いない。
そうして話しながら歩いていた二人はスタジアムに到着した。
「良い席空いてると良いけど」
「それは中に入ってみないことにはわからんな」
高跳びが行われるフィールドに近い席が空いていることを祈りながら、二人は観客席へ足を進めた。