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第38話 悩み

「私は二人がイチャイチャしているところを見せられる為に呼ばれたの?」


 呼ばれたから来たのに放置され、その上乳繰り合っている光景を見せつけられるとは新手の嫌がらせであろうか? と伊吹は首を傾げたくなった。

 本気でそう思っている訳ではないだろうが、彼女が失笑する気持ちは理解出来る。


「違う違う」


 流石に申し訳ないと思った紫苑は慌てて首を左右に振る。


「伊吹にきたいことがあったんだけど、つい興が乗っちゃって……」

「うん。二人が仲良しだってことはわかったよ」


 嫌味に感じてもおかしくない状況だったが、微笑ましくなるほど仲睦まじかったので寧ろ心が和んだくらいだ。

 気分を害した訳ではないので謝る必要はないと言外に示した。


「それで訊きたいことって何?」

「んーとね、伊吹は映画の撮影に協力してくれているけど、インターハイも近いし付き合わせても大丈夫なのかなーと思って」


 紫苑は伊吹の顔を覗き見て反応を窺う。


「大丈夫だよ。相坂さんに教えることで私も初心を思い出せているから」

「そっか。なら良かった」

「寧ろ感謝してるくらい」

「そうなの?」

「うん」


 伊吹は頷いた後、苦悩しているかのように表情が抜け落ちていく。

 表情が抜け落ちていたのは一瞬の出来事で、すぐに苦笑してお茶を濁すそうとする。


「だから気にしないで」


 伊吹は作り笑いしているかのように表情が硬く、心から笑っているような自然さが感じられない。

 本人は誤魔化しているつもりだが、彼女の表情の不自然さには紫苑も実親も気が付いていた。


「何か悩みでもあるの?」


 踏み込んでも良いのかわからなかったが、協力してもらっている立場としては可能な限り力になりたいと思い紫苑は躊躇いがちに尋ねた。


「……悩んでるように見える?」

「なんか無理に笑ってるように見えたから」

「そんなにおかしかった?」


 紫苑の言葉に伊吹は自分の顔を両手で触って表情を確かめる。


「ううん。なんとなく思っただけ」


 首を左右に振った後、紫苑は気遣うように続きの台詞を紡ぐ。


「でも無理に詮索するつもりはないから言いたくなければ言わなくて良いからね」

「別に隠してる訳じゃないからそんなに気を遣わなくても大丈夫だよ」


 気を遣わせて申し訳ないと思った伊吹は苦笑交じりに言う。


「そっか……なら話してみない? 口に出すだけで楽になることもあるよ? ソースは私」


 紫苑は自分を指差して強調する。

 彼女は誰にも話していなかった家庭の事情を実親に話したことで気が楽になった。

 原因が解決した訳ではないが、心の休まる居場所を見つけることが出来たのは腹を割って話したからこそだ。

 当時の紫苑は自慰に耽っている姿を見られた相手だから恥ずかしがることも気に病むこともないと割り切って事情を話した。彼女はその時の自分を褒め称えたいくらい正しい判断だったと思っている。

 なので話したからと言って悩みが解決する保証はないが、少なくとも気は楽になるのではないかと思い伊吹のパーソナルスペースに踏み込むことにしたのだ。


「なんなら俺は席を外すが」


 女性同士の方が話し易いこともある。寧ろ異性には聞かれたくないこともあるだろう。

 恥ずかしいことや情けない姿を異性に見聞きされるのは抵抗があってもおかしくない。年頃の少年少女なら尚更だ。

 故に実親は気を遣って席を立とうとした。


「ううん。それは大丈夫」

「そうか」


 伊吹は実親を引き止める。

 どうやら同席しても問題ないようだ。


「折角だしお言葉に甘えさせてもらおうかな」

「うん。なんでも話して」

「ありがとう」


 紫苑が微笑みを向ける。

 彼女の慈愛に満ちた微笑みには包容力があり、伊吹の心は安心感で満たされ引き摺られるように自然と笑みを浮かべた。


「……実は最近伸び悩んでて」


 絞り出すように吐き出した言葉は苦悩が感じられるほど重々しい声色だった。


「高跳びのこと?」

「うん」


 紫苑の問いに伊吹が首肯する。


「高校に入学してから記録は伸びないし、身体が思うように言うことを聞いてくれなくて……」


 伊吹の表情が曇る。

 中学時代は華々しい活躍をしたが、高校入学以降は思うような結果を残せていなかった。

 それでも一年生ながらインターハイ出場を決めているので決して不甲斐ない結果という訳ではない。

 しかし伊吹にとっては満足のいく結果ではなかった。


 思い通りに身体が動かないのも彼女が自分のパフォーマンスに納得がいかない要因だ。

 中学時代は思った通りに身体が動いていた。だからこそ言うことを聞かない今の身体と、思い通りに動いた過去の自分とのギャップに苦しんでいたのだ。


「色々試行錯誤はしてるんだけど、正直これ以上何を努力すれば良いのかわからないの」


 コーチと相談しながら調整を行っている。

 高跳びの練習は勿論、筋トレ、柔軟性を高める為のストレッチ、高跳び選手用に栄養士が考案している食事を摂りつつ、筋力を落とさないように気を付けながら体型維持の為の食事制限、それらをこなした上でコンディション調整も怠っていない。

 一日中高跳びの為に時間を使っている。


「凄いね……そんなに努力してるのに上手くいかないのはもどかしいよね」

「これくらいは努力したうちには入らないよ。やって当たり前のことだから」

「グサッ! 意識が高い……!」


 休む暇もないのでは? と思った紫苑は感嘆するが、伊吹は至って真面目な表情で首を左右に振る。

 素人にとっては目を疑う程の努力量だと思う。

 しかしスポーツ選手にとっては当たり前のことなので努力という認識はなかった。


「私は自分が情けないよ……!」


 伊吹の意識の高さを目の当たりにした紫苑は打ちひしがれる。

 自分と伊吹を比べてしまったのだろう。比較対象が同い年の上に同性なので余計にダメージがあった。


「高跳びのことはわからないが、椎葉が悩んでいる理由はわかった」

「無視ですか……!?」

「今は椎葉が優先だ」

「それは正しい……!」


 実親は紫苑のことをスルーして伊吹に話し掛けたが、無視された紫苑は愕然とする。

 ところが紫苑のことを一瞬流し見た実親の返答に彼女は頷くしかなかった。


 今は伊吹の悩みを聞いているところだ。

 なので優先すべきは伊吹であり、紫苑のことを構っている場合ではない。

 そのことを紫苑も理解しているからこそ頷くしかなかったのだ。


「ふふ。ほんと二人は仲良しだね」


 コントのような二人のやり取りに伊吹が笑う。


「うん。やっぱり伊吹は笑ってた方が可愛いね」

「そうだな」


 微笑む紫苑の言葉に実親が相槌を打つ。

 実は二人がコントのようなやり取りを交わしていたのは、苦悩しているとわかる表情が標準装備になっていた伊吹が少しでも笑えれば良いと思い狙ってやったことだった。

 それにしても打合せや目配せをすることなく行う二人は息ピッタリだ。


「気を遣わせてしまったね」

「私が笑ってる伊吹のことが好きなだけだよー」

「……ありがとう」


 裏がないとわかる紫苑の澄んだ瞳に伊吹は照れて顔を赤らめる。

 裏がないとわかるからこそ同性からでも「可愛い」、「好き」と言われるのは恥ずかしい。


「ちょっと久世さんにときめいちゃった」


 不意打ちを食らった伊吹は襟足を弄りながら照れ笑いする。


「ほんと?」

「う、うん」


 身長差の所為で上目遣い気味に顔を覗き見ることになった紫苑に見つめられた伊吹は余りの破壊力にどもってしまう。


(思わずチューしたくなっちゃったよ……!)


 伊吹は平静を装っているが、胸中では悶えていた。


(久世さん可愛すぎ! しかも凄い色っぽいし……!)


 同性をも虜にするとは紫苑は魔性の女であった。


「なら私とデートしよ?」

「え」


 コテンと首を傾げる紫苑の予想外の台詞に伊吹は目が点になって表情が固まった。


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