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第32話 特別

 二日後の土曜日。

 この日の気温はそこまで高くなく、連日の猛暑に比べれば比較的過ごし易い一日だった。あくまでもマシというだけで暑い事実は変わらない。


「下乳のところに熱が籠って暑いんだよねー」


 制服姿の紫苑が自分の豊満な胸を下から持ち上げて熱を放出する。いつも通り胸元を開いているので確りと熱が逃げていく。

 たわわに実ったお胸様が見えるので大変眼福だが、年頃の女の子としてそれで良いのか、と苦言を呈したくなる。


「……少しは恥じらいを持ったらどうだ?」


 同じく制服姿の実親が溜息を吐く。

 男の目の前で胸を持ち上げたりなどするのは如何なものかと思った。

 下手したら誘惑していると勘違いされかねない。


「えー、黛なら別に良いでしょ」

「何が良いんだか……」

「だって今更だし」

「それは間違いないが……」


 しかし紫苑は全く意に介さずあっけらかんとしている。

 彼女は既に一番恥ずかしい姿を実親に見られているので気にするだけ無駄だと思っていた。


「一応言っておくけど、別に全く恥ずかしくない訳じゃないよ? 私だって黛相手でも恥ずかしいと思う時はあるから」

「そうなのか?」

「うん」


 いくら開き直っているとは言え、女を捨てた訳ではない。恥じらう気持ちはちゃんと持ち合わせている。


「そもそも黛以外の男子の前でこんなことしないよ」


 隣を歩く実親の顔を下から覗き込んではにかむ。

 普段のクールでミステリアスな彼女のことしか知らない者が見たら驚くだろう。

 心を開いた相手には表情が豊になるようだ。


 現在二人は学校の廊下を歩いていた。夏休みなので周囲に他の生徒の姿はない。

 二人きりだからこそ紫苑は胸を持ち上げたのだ。他に人がいたら流石に弁えている。


「黛は特別だもん」


 そう言うと紫苑は前を向いて早足になり、実親から逃げるように去っていく。

 無意識に「特別」という単語が口から飛び出たことに恥ずかしくなったからだ。


 実親には心を開いているし信頼もしている。

 加えて紫苑の中では自分が思っていた以上に実親のことが特別な存在になっていた。その事実をたった今自覚したのだ。


 実親は去っていく紫苑の姿を視線で追うと、耳が赤くなっているように見えた。

 照れて赤くなっているのか、暑さで身体が火照って赤くなっているのか、彼には見当がつかない。はたまた両方かもしれない、と思った。


 しかし確実にわかったことが一つだけある。

 先程言っていた実親に対して恥ずかしくなることもあるというのは間違いないようだ。


「勘弁してくれ……」


 紫苑が見せた一連の表情があまりに魅力的だったので、実親の脳裏に刻み込まれた彼女の痴態が再び呼び起こされた。


 実親は頭を掻きながら首を左右に振り、脳内で再生されている情景を追い出して無心になるように努める。

 一度深く深呼吸して理性を引き戻し、下半身に熱が籠っていくのをなんとか堪えると、紫苑の後を追った。


◇ ◇ ◇


 紫苑に追いついた後は二人並んで歩みを共にした。

 そして今は映画研究部の部室の前にいる。


「こんにちはー」


 紫苑が慣れた様子で扉を開く。


「お、来たか」


 部室には既に宰がいた。

 デスクの椅子に腰掛けている。


「久世ちゃんやっはー」


 部室にはもう一人いた。

 女子生徒がソファで寛いでおり、笑みを浮かべながら両手を顔の前で振っている。


「真帆ちゃん先輩やっほー」


 紫苑はテーブルに鞄を置いてから女子生徒――真帆――に歩み寄ると、彼女の両手に自分の両手を重ねた。

 互いに指を交差して握り合う。

 実に仲の良い二人だ。


「黛君もやっほ」

「先輩は今日も元気ですね」


 真帆は真正面に紫苑がいるので姿が隠れている。

 なので紫苑の陰から覗くように実親に声を掛けた。


「そりゃ久世ちゃんに会えたからねー」


 そう言うと真帆は紫苑の豊満な胸に顔面をダイブした。

 弾力があって柔らかい包容力の塊に顔が包まれる。


「あー、幸せ―」


 だらしない顔を晒している彼女の名前は和島わじま真帆まほと言う。

 茶髪をナチュラルワンカールボブにしており、クリクリとしたつぶらな瞳に童顔、小柄な体型が相まって小動物のように愛らしい。

 ワイシャツの上にベージュのカーディガンを着ている。サイズの大きいカーディガンなのでスカートが隠れて穿いていないように見える。

 黒のオーバーニーソックスは紫苑とお揃いだ。

 一見すると中学生だと勘違いしてしまいそうな外見だが、彼女は高校三年生だ。実親と紫苑よりも二つ年上である。

 そして映画研究部の副部長だ。


 二年生の宰が部長で、三年生の真帆が副部長なのには理由がある。

 先代の部長から引き継ぐ際に彼女が面倒臭がって固辞したからだ。

 紫苑が入部するまで部員は二人しかいなかったので仕方なく副部長の役目は引き受けたが、本当はそれすら遠慮したかった。


「真帆ちゃん先輩は相変わらずだなー」


 紫苑は苦笑するが、拒絶することなく受け入れて抱き留めている。


「幸せそうで何よりです……」


 肩を竦めた実親は鞄をテーブルに置くと椅子に腰を下ろす。


「ところで二人は一緒に来たが、久世はまたサネのとこに泊まったのか?」


 宰が尋ねる。


「泊まりましたよ」

「聞き捨てならない台詞が……!」


 紫苑が首肯すると、「がばっ!」と音が鳴りそうな程の勢いで真帆が顔を上げた。


「二人はいつからそんな関係に……!」

「先月からですよ」


 間髪入れずに紫苑が答える。


「なん……だと……!」


 真帆は紫苑に抱き着いたまま絶句した。

 固まって動かない。


「……そんなうらやまけしからんこと……お姉さんは許さないぞ!」


 本音駄々漏れなことを口走った真帆は一層強く紫苑に抱き着いた。

 顔が胸にめり込む程で、自分の物だ、と主張しているかのようだ。


「久世ちゃんは渡さないよ!」

「いや、そもそも俺の物でもなければ先輩の物でもないですから」

「ぐぬぬ……そうだけど……そうだけど!」


 実親の言う通り紫苑は誰の物でもない。本人の自由を奪う権利もない。

 真帆は正論をぶつけられて何も言い返すことが出来ずに歯を食いしばった。


「久世ちゃん、今度は私の家に泊まりにおいで?」

「今度お邪魔しますね」

「うん!」


 潤んだ瞳で上目遣いをする真帆は幼い顔立ち故にいじらしさがある。

 そんな彼女のことを紫苑は「可愛い先輩だなー」と心の中で思い癒されていた。


 今までは先輩に迷惑掛けるのは憚られたが、本人がお泊りを要求しているので今後は遠慮なく泊まらせてもらうことにする。

 勿論たまに泊まらせてもらうだけで、全く遠慮しない訳ではない。


 しかし当の真帆はご機嫌で紫苑の胸に顔をうずめている。

 頭をぐりぐりと動か度に胸が弾んでいるのには視線が吸い寄せられてしまうが、実親も宰も自重した。誘惑に屈するとアシストをしている真帆に負けた気がするからだ。


 そんな可愛い先輩のことを見下ろす紫苑は、本人が喜んでいるなら細かいことは気にしなくても良いか、と思うのであった。


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