一週間後。
実親は放課後になると映画研究部の部室に足を運んだ。
部室の前に辿り着くと、ノックもせずに引き戸を開ける。
「黛じゃん」
扉が開かれた音に気付いた紫苑と目線が合った。
「何か用?」
「ああ」
実親は紫苑の質問に頷くと、目当ての人物の背後に移動する。
その人物はデスクでパソコンと睨めっこしてた。なにやら作業をしているようだ。
集中していて実親の存在に気付いていない。
そして声を掛けることなく、背後からUSBメモリを差し出した。
「うお!?」
突如死角から手が飛び出してきたことに驚き、デスクの下で右膝をぶつけてしまう。衝撃でデスクの上にある小物が僅かに跳ねた。
「いって!」
右膝を抱えて痛みに耐える。
「驚き過ぎだろ……」
「先に声掛けろよ……」
余りの驚きように実親は目が点になった。
対して膝を抱えている人物は実親に非難の眼差しを向けている。
「部長大丈夫ー?」
ソファに腰掛けている紫苑が同情心の籠った声色と表情で尋ねる。
「久世は心配してくれるのか……優しさが心に
「アホなこと言ってないでさっさとこれを読め」
部長と呼ばれた男は大袈裟な仕草で感慨に耽るが、実親は容赦なくUSBメモリを眼前に差し出す。
「サネは優しくなくてお兄ちゃん悲しいぜ……」
「俺に兄はいない」
実親はすげもなくあしらう。
「二人は付き合い長いの?」
二人のやり取りを見ていた紫苑が首を傾げる。
学年が違うのに軽口を叩ける関係性に疑問を抱いたのだ。
「ああ」
実親が頷く。
「幼馴染だよん」
「へえ」
部長と呼ばれた男が一言補足する。
「サネは可愛い弟分なのさ」
「だからお兄ちゃんなんですね」
「そそ」
紫苑は納得顔になる。
実親の幼馴染の名は
立誠高校の二年生で映画研究部の部長を務めている。
切れ長の目をしており顔立ちも悪くなく、黒髪を首が隠れるくらいの長さのウェーブパーマにしている。
ワイシャツは第二ボタンまで外しているが、制服を着崩してはいない。
一見すると知的さとミステリアスな雰囲気を感じられる。
実親と宰は幼稚園の頃からの付き合いであり、互いに気心の知れている間柄だ。
「それで……それは何?」
紫苑は実親が手に持っているUSBメモリに視線を向ける。
「学祭で上映する自主制作映画の脚本」
「へえ――」
「おっ、遂に出来たのか!」
紫苑の機先を制するように宰が喜色を表し、実親の手からUSBメモリを
「どれどれ」
宰はUSBメモリをパソコンに挿し込む。
フォルダを開いて脚本のデータをディスプレイに表示する。
「私も読みたい」
紫苑はソファから立ち上がって宰の隣の椅子に移動し、二人は並んで脚本に目を通す。
その間実親はソファに腰を下ろし、鞄から取り出した小説を読む。
三人が口を閉じたので室内は静寂に包まれる。
虫の鳴き声や風に靡く木々の葉音、校庭で部活動に励む声が背景音楽と化す。
実親は暫く読書を楽しんでいると、鼻をすする音が聞こえて来た。
気になったので音の発生源へと視線を向けると、紫苑が鼻をすすっていた。横顔から見える目元には光る物がある。どうやら涙目になっているようだ。涙が流れ落ちないように指で塞き止めている。
普段は諦念しているが故にクールでミステリアスなところがあるが、意外と涙脆い一面もあるようだ。
彼女の新たな一面を知った実親は無意識に口元を緩ませ、小説に目線を戻した。
「これやばいんだけど」
脚本を読み終えた紫苑は立ち上がり、自分の鞄の元まで移動して中身を漁る。
ハンカチを取り出して涙を拭い、鏡で目元を確認すると幸いにも化粧崩れは目立っていなかった。
「高校の学祭で上映するレベルじゃないと思う」
鏡を鞄に戻して顔を上げた紫苑が率直に感じたことを告げる。
「流石サネだな」
宰も褒めるが、腕を組んで考え込んでしまった。
「……これ本当に
「ああ。問題ない」
実親は「好評そうで何よりだ」と胸中で呟く。書いた甲斐があるというものだ。
「そうか? 普通に出版したら売れるんじゃないか?」
宰は実親が小説家であることを知っている。
なので予想以上の完成度である脚本を部活の自主制作映画に使うのは気が引けた。
実親は問題ないと言うが、出版して世間に出すべきではないかと思案する。
「なんかプロの会話みたい」
涙は引いたが、少しだけ目元が赤くなっている紫苑が呟く。
「サネはプロだぞ」
「え」
宰の言葉に紫苑は瞠目して言葉に詰まる。
「ど、どういうこと?」
なんとか言葉を絞り出して実親に視線を向けた。
「そのまんまの意味だ」
「それじゃ伝わらないだろ」
実親の言葉足らずな返答に宰は肩を竦める。
そして宰は仕方ないと言わんばかりの表情になって口を開く。
「サネは小説家なんだよ」
「え……嘘でしょ?」
紫苑は驚きの余り口を半ば開いたまま固まってしまう。
「本当だ」
「……」
実親が首肯するも、紫苑は思考が停止したのか反応がない。
「久世が壊れちまったぞ」
宰の台詞に実親は頭を掻く。
無反応だった紫苑は思考が戻ったのか、徐に口を開く。
「何度も泊めてもらったのに全く気付かなかった……」
紫苑は何度も実親の家に泊まっている。
共にいる時間が長ったので必然的に実親のプライベートのことを知る機会はあった筈だ。しかし、それでも実親が小説家だということには微塵も気が付かなかった。
実親は紫苑がいる時も執筆はしていたが、書斎に籠っていたので気付かないのも無理はない。書斎には入らないようにと伝えてあるので尚更だ。
寧ろ紫苑が実親の言うことを律儀に守っている証拠でもある。
彼女にとっては万が一不興を買って泊めてもらえなくなってしまうのは避けたいことだ。なので言い付けを守るのは処世術として身に付いていた。
「俺はお前らがそんな関係になっていたことに驚きだよ……」
宰は目を
いつの間に二人はお泊りする関係になったのか、と言いたげだ。
「お兄ちゃんは嬉しいやら悲しいやら複雑な心境だよ」
「何言ってんだ……」
弟分が幸せそうにしているのは嬉しいが、内緒にされていたような気がして虚しさを感じている。
そんな宰に対して実親は溜息を吐いて呆れを孕んだ視線を向けた。
「そういうのじゃないですよ」
紫苑が苦笑しながら右手を小さく振って否定する。
「そうなのか?」
「ああ」
「ふーん」
実親が頷くが、宰は納得していないような表情だ。
「まあ、いいや」
一先ず気にしないことにして、ディスプレイに表示させている脚本に視線を戻す。
「話を戻すが、遠慮なくこの脚本を使わせてもらう」
「好きなように使ってくれ」
「サンキュ。だが、後々加筆や修正をしてもらうかもしれないが構わないか?」
「ああ」
映画を撮る中でストーリーを変更することがあるかもしれない。演出上の問題で細かい調整が必要になる場合もあるだろう。
そうなると実親が折角書き上げた脚本に手を加えなくてはならない。しかも加筆修正する手間を取ることにもなる。
善意で書いてもらった身としては気が引ける部分だ。
だが、そこは幼馴染の二人なので問題はなかった。互いに信用しているし、協力を惜しむ気もない。それだけ二人の関係値は出来上がっている。
脚本の件も本人が了承しているのなら遠慮する必要はないと判断した。
「んじゃ夏休みに入ったら撮影を開始するぞ。それまでに準備を済ませるから久世もそのつもりでな」
「はーい。わかりました」
紫苑はしゃがんだまま敬礼する。
映画研究部は夏休みに突入してから本格的に始動するようだ。
充実した夏休みになることだろう。
紫苑は敬礼を解除すると、流れ作業のように慣れた調子で実親に声を掛ける。
「黛、今日も泊めてー」
「……好きにしろ」
当の実親も既に慣れたものであった。溜息を吐いて肩を竦めるまでが恒例になっている。
その二人の様子を見ていた宰は「この二人絶対なんかあるだろ」、と思っていたが口には出さなかった。