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■8:外出

 翌日、僕は黒塗の車で、初めて館の敷地から出た。

 運転しているのは茨木で、僕は後部座席にのっている。

 あきらかに高級車だ。偉い人か大金持ちか闇の勢力の人々が乗っている印象の車である。


 車に乗るなんて、何年ぶりだろう。多分祖父の葬儀以来だ。

 何気なく外の風景を見ていた僕は、不意に標識を見て、首をかしげた。


 新宿府と書いてあったのだ。いつから新宿は、区じゃなくて府になったのだろうか……。


 僕は大学生のころ八王子に住んでいたから、ちょくちょく新宿には遊びに行ったものである。しかし、面影はどこにもなかった。車が駐車場に止まってから、僕は百貨店へ続く通路を見た。聞いたことのないお店だが、巨大だ。駅ビルだ。


 中に入ると、すごい人ごみに飲み込まれた。それだけで僕は緊張した。僕は自分を舐めていた。やっぱり僕は生粋のヒキコモリだったのだ。胸がざわざわしてくる。それでも、ぎくしゃくしながらも必死に歩いた。一歩前には、先導する茨木がいて、彼は堂々とエスカレーターに乗っている。そのまま三階の書店兼雑貨店についた頃には、僕は息切れしていた。無理だ。この一連の行動だけで無理なのに、明日から学校生活なんて不可能だ。めまいがしてきてしまった。憂鬱な気持ちで周囲を一瞥する。すると、不意に茨木が立ち止まった。彼の目が細くなっていたので、何事だろうかと視線を追う。そこには、ふたりの少女の姿があった。


「私の前を遮るなんていい度胸ね」

「申し訳ございません、申し訳ございません、決して、決してそのようなつもりでは……! お許しください! ご慈悲を!」

「あなた、見たことがあるわ。たしか、陸上部のエースだとかっておだてられて調子に乗っていた方よね?」


 金髪縦ロールの少女が仁王立ちで、嘲笑している。僕はあっけにとられた。まるで物語の中から抜け出してきたかのような、悪役っぽい女の子に、一気に現実感が欠落していく。それに口調も衝撃的だった。僕の周囲には、これまでの人生で、語尾に「わ」をつけたり「よね?」なんていう人はいなかったのだ。彼女は完全にお嬢様口調なのだ。なのに、なのにだ。上品じゃない行動をしている。床に土下座しているもうひとりの少女の肩を、蹴りつけたのだ。僕は目を見開いた。まるで昼ドラみたいだ。どういう状況なんだろう?


「そうね、慈悲ね。わたくしは、優しい人間ですから、同じ学校の生徒ですし、通報はしないであげますわ。このわたくしの肩に故意にぶつかろうとした愚劣なあなたのことも、許してあげます」

「ありがとうございます」

「足を出しなさい」

「え……?」

「聞こえなかったの? たしかあなた、短距離走の選手よね?」

「あ、や、止め――!」


 お嬢様風の少女が意地悪く笑いながら、土下座している女の子の足を踏みつけた。膝の関節部分だった。ボキリと、はっきりと嫌な音が聞こえた。え、折れた? 恐怖よりも、突然の事態に僕は、現実が信じられなかった。女の子が別の女の子の足を、踏み潰した……? え? 物理的にそんなことって可能なのだろうか? 何度か瞬きをした僕は、お嬢様風の女の子の靴が淡い緑色に光っていることに気がついた。直感的に、それがフォンス能力であると理解した。独特の気配があるのだ。もうひとりの女の子は、むせび泣きながら、声を上げている。膝に両手をあてて、号泣していた。


「これでもうあなたは走れないわね」

「うっ……」

「次は左足かしら」

「あ、ああああ」

「通報されて懲役十年になるよりはマシでしょう? もっとも十年で済めばいいけれど」


 嘲笑しているお嬢様風の少女の声に、僕は愕然とした。そして気づくと飛び出していた。これは良くない。こんなのダメである。通報されるべきはお嬢様だ。僕は正義感が強い方ではないが、常識的に考えて、こんな暴行は見過ごせない。


「ま、待って! やめなよ! ひどいよ!」


 慌てて間に入ったものの、僕には語彙がなかった。我ながら出てきた制止の声が、情けない。その上、凍りつくような眼差しで、蔑むように僕を見たお嬢様と目があった瞬間、背筋を怖気が走った。僕はヘタレである。怖い。本当、怖い。


「あなたは? わたくしが、クリストフ伯爵に認めていただいている七瀬家の次女、美津香と知っての非礼ですの?」

「え、えっと……」

「せっかくの慈悲が台無しですわね。あなたも覚悟なさって。いくらイケメンであっても罪は罪です。もちろんそこの彼女の罪も、もう許す気はありませんわ」


 ど、どうしよう……? 怖くてなんにも言葉が出てこない。頭が大混乱してしまった。イケメンって何? そんなのはじめて言われたよ! 僕は泣きそうだ。目が潤みそうだ。その時、すっと僕の横から、茨木が一歩前へと出た。


「彼は私が後見人を務めている者です。それは華族たる七瀬家が、クリストフ伯爵を通して、世界貴族使用人連盟に訴えるという意思表示と認識してよろしいでしょうか?」


 茨木はうっすらと片側の唇を持ち上げていた。お嬢様に負けず劣らず、虫けらを見るような顔をしている。怖い。こっちのほうが怖い。こんな顔は、今までには見たことがない。


「世界貴族使用人……? あ、あなたは……茨木様……?」


 震える声で七瀬さんがつぶやいた。驚愕の色を瞳に宿し、大きく目を見開いている。


「ええ、私は茨木と申します」

「――これは、お見苦しいところをお見せいたしましたわ。気が削がれました、帰ります。もちろん、いずれの機関にも今回の件を訴えはいたしません。七瀬家の人間として、わきまえておりますから。縁者様、ですか。お人が悪いこと。それでは失礼いたします」


 お嬢様は失笑を残して立ち去った。ただし彼女の指先が、ブルブルと震えているのが僕には見えた。心なしか顔色も悪い。まるで茨木は、時代劇に出てくる印籠とか桜吹雪の刺青とか、とにかく民衆がひれ伏す象徴みたいな存在だった。この人、すごい人だったのか……。だけど、助かった。僕は、七瀬さんの姿が見えなくなった瞬間、体の力が抜けた。と、同時に、目の前で苦痛の声を上げている少女のことを思い出した。一瞬の間忘れていた。


「だ、大丈夫?」


 しゃがんで彼女をみる。足が明らかに腫れている。見るからに折れている気がする。それもヒビとかじゃない。ぼっきりいっている。だって、変な方向に曲がっているのだ。どうしようこれ。泣きじゃくっていて、何も言葉にならない様子の彼女の患部の上に、僕は手をかざした。そして治るところを一生懸命イメージした。それから決意して口に出す。


「治れ!」


 すると手のひらが暖かくなってきた。みるみる足の形が元に戻っていく。あ、治せた。治せたみたいだ! 僕はそれから、必死に学んだ医学知識を思い出し、彼女の足に直接触れて確認した。変質者とか言われたらどうしようかと思ったが、必死で呼吸している彼女は、そんなことを言わなかった。僕が「動く?」とか「痛みは?」とか尋ねるたびに答えてくれた。ひとしきりそうして確認してから、僕は大きく息を吐いた。もう大丈夫そうだ。


「ありがとうございます」

「ううん、治って良かった」

「この御恩は忘れません。助けてくださって、本当にありがとうございます」

「いえいえ」


 僕は曖昧に笑って、彼女に手を振った。ちょっといいことをした気分だ。なんだか胸がすこやかな気分になったので、少し離れた位置にいた茨木のところまで歩く。この気持ちなら、楽しく買い物が出来そうだ。


「文房具ってさ、何を買ったらいいのかな?」

「――基本的には、タブレットなどを使うでしょうから、あまり必要ないと思います。それよりも、お見事でした」

「え? 見事?」

「まず華族に向かって臆せず助けに入るその姿勢、素晴らしいことです」

「普通だと思うけど」

「かつてはそういう時代もございましたね」

「いやいや僕がひきこもる前だから、三年前くらいは、こうだったと思うよ。あんなの誰だって見てられないよ」

「でも、周囲はみんな、ぼんやりと眺めていたでしょう?」


 言われて僕はその事実に気がついた。それとなく振り返るが、みんな注目こそしていたが、助けに入った人はいなかったし、今ではもう立ち去ろうとしている人も多い。たまに僕の方を見る人はいるが、まだ座り込んでいる少女に声をかける人もいない。普通だったら、大丈夫の一言くらい、被害者に声をかけそうなものなのに。


「華族でさえもこのように恐れられているんです。同じF型表現者であった場合ですら、華族には逆らえない。世界貴族ならばなおさらです。これが情勢です。世情です。お分かりいただけましたか?」

「知りたくなかった」

「現実を直視してください」

「無理かも。怖すぎる」

「救急車を手配したものさえいませんでした。露見すれば、呼んだものも制裁を受けるからにほかなりません。よってもしもスミス様がいらっしゃらなければ、彼女は両足を複雑骨折することになり、その上で意識を喪失していたことでしょう。運良く意識が戻った時に、自力で救急車を呼ぶことになっていた。まぁ、足が治る見込みはそれでもゼロだった可能性が高いですね。しかし驚きました。他者の肉体の治癒は、非常に難易度が高いのです」

「とにかく助かって良かった。治って良かった」

「他者への完璧な治癒能力をもつものは、世界で三人しか確認されていません。少し怪我を緩和出来るだけでも、貴重なフォンス能力者として優遇されます。それだけスミス様のフォンス能力とイメージ力は優れていらっしゃる」

「イメージ力は、なんていうか、ひきこもってる時、空想しかしてなかったからかな。それ以外には心当たりがないよ。フォンス能力にいたっては本気で分からないし。それより、文房具があんまりいらないとなると、ほかには何がいるかな?」

「新しい携帯電話の購入もオススメいたします。友人作りでは、トークアプリなどを多用するようですから」

「僕、苦手なんだよね……今のスマホじゃだめなの?」

「別に構いませんが、過去の友人やご家族からの連絡も受け取る確率が上がりますよ。連絡を取りたくないのでしたら、新規でご契約なさったほうが。学校専用の電話として使用し、不要になれば捨ててしまえばいいのです。逆に世界貴族関連で必要な連絡先の管理にもそちらを使っておいてもいいでしょうし」

「別に連絡を取りたくないわけじゃないんだけど……何を話していいかわからないんだよね……」

「では落ち着いたら、かつてのご友人たちとの歓談の場も設けさせていただきますよ。ご家族とも」

「あ……ありがとう。でも、大丈夫。連絡取る勇気が出たら、自分で連絡するから」

「そうですか。承知致しました」


 その後、適度に買い物をし、携帯電話も購入し、僕らは帰宅した。




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