摩天楼ヤオヨロズの第4層。
煌びやかな大都会を見下ろす一室に、彼はいた。
――アトモスの開拓卿。
ダンジョン突入回数歴代1位、アーティファクト発見及び登録数歴代1位、エネミー図鑑構築の第一人者、20~56階層完全攻略作戦を主導し、Sランクの探索者として最古の一人であり、探索者の代名詞とさえ称される。
故に、開拓卿。
誰もが、彼の実力に畏敬の念を抱いてそう呼ぶのだった。
数々の実績や煌びやかなアーティファクトが並べられた棚。それらと夜景を眺めて穏やかな時間を過ごすのが彼にとっての贅沢な時間だった。
しかし、そんな時間が守られることは少ない。
凄まじい音を立てて中に入るのは、アトモスに用事がある客人だ。彼の私室にこうして入室することができる人間はそう多くない。客人である彼もSランクに認定された探索者――ユウトだった。
彼は慌てた様子でアトモスが座る机の前に立ち「キョウヤさん、話が違いますよ!」机の端を掴むユウト。彼の指先から滲み出る漆黒のオーラが、机の表面をジリジリと焼いた。
彼は既に、制御できないほどの怒りに満ちていたのだ。黒のロングコートから、ゆらゆらと黒いオーラが立ち現れていった。
そんな荒々しいユウトとは違い、アトモスは至極落ち着いた様子でゆっくりと立ち上がった。彼のフルフェイスのヘルメットに映る無数のモノアイが、ぎょろりと一斉にユウトに向けられる。
「ユウトさん、こんな時間にいらっしゃるとは。どのようなご用件でしょうか?」
「あいつのことだ。アサヒ!」
「アサヒさん――ああ、先日も彼と出会いました。元気なご様子でしたね。それが何か?」
「あいつの処理はキョウヤさんに任せたはずだ。だっていうのに、どうしてあいつが生きているんだよ!」
凄まじい剣幕で机を殴打するユウト。彼の一撃で、机はへこみおしゃかになってしまう。「気に入っていた机なんですが……状況が変わったんです」かつ、かつと足音を響かせて移動するアトモス。ヘルメットによってくぐもった男とも女ともつかない無機質な声が、室内に響いた。
「新狼サナカ、ユウトさんが剣を交えた相手ですね」
「新人のSランク、俺の敵じゃありませんでした」
「そうでしょうとも。同じSランクといえど、経験の差がありますからね。しかし重要なのは彼女の実力ではありません。彼女の出現によって、アサヒさんはもう一度探索者に復帰したのです」
「それが問題なんです!」
分かっていますとも、とアトモスは頷いた。ガラスのショーケースを手でなぞり、アトモスはユウトの背後を取った。
「ユウトさん、あなたが恐れているようなことは発生しないでしょう。断言はできませんが――可能性は限りなく低い」
「俺はゼロを求めています」
「あらゆる可能性が存在します。ゼロは、ありえません。ですが、そのような説明ではユウトさんは納得しないでしょう。ですので、別の言葉を弄しましょう。近々、61階層以降の本格攻略が行われることは知っていますね?」
アトモスの声は、機械のように感情を欠いている。それが、ユウトの怒りを冷めさせていった。やや、冷静さを取り戻したユウトが首を縦に振った。
「中ギルド合同の……ですよね」
はい、その通りです――アトモスが頷いてユウトの答えを肯定した。「当然、我々もアサインします」それはユウトも分かりきっていたこと。だから驚くことはない。
「分かりますか? 現状の問題として――アサヒさんよりも61階層の攻略が最重要事項です。サナカさんの出現で多少パワーバランスは変わりましたが――ユウトさんがSランクの末席であるという事実は拭えていませんよね?」
「……」
「過ぎたことを気にするよりも――ユウトさんは自らの立場を向上させることにリソースを割いた方が良いのではないでしょうか?」
ユウトに顔を近づけて、モノアイが怪しく光った。「仲間を陥れてまで手にした地位でしょう?」ぎょろぎょろと、ヘルメットにつけられたモノアイが別の生き物のように動き回る。
「……アサヒもセレナも、仲間じゃありません」
「それもそうでしたね」
アトモスはゆっくりとユウトから距離を取った。「しかし、陥れたことは事実でしょう」その言葉は、ユウトの記憶を強制的に掘り返す。
アサヒはユウトにとって、絶対に知られたくない秘密を知ってしまったあの日。全ての歯車は狂ってしまった。そんな風に、ユウトは思っていた。
だからこそ、ユウトは自らの師であるキョウヤに、判断を仰いだのだ。
そして、彼がユウトを唆した。「であれば、排除してしまえばいいのです」と。結果として、彼は本来失いたくなかったセレナまで手放すことになってしまった。その代わりに、今のSランクという立場を手に入れたのだが。
――キョウヤさんが、そう言ったんじゃないか。
なんて、言えるわけもなくユウトはその言葉を飲み込んだ。
「ユウトさんの秘密は守られている。今はそれでいいじゃないですか」
相も変わらずに無機質な声が、室内に響いた。
さっきまでの穏やかなアトモスから一種の圧が放たれる。“本物のSランク”その威圧感。「まさか、自ら馬脚を現すような愚かな真似、ユウトさんはしないでしょう?」壊れた机に手を置いて、ぎょろりとモノアイがユウトを見据えた。
アトモスの手が光ったかと思えば――机の傷は消えていく。
彼の持つスキルだ。時を戻すとも、回復するとも、作り替えるとも言われる規格外のスキル。
ユウトに反論は許されていなかった。「分かりました。師匠がそういうのなら、きっとそうなんでしょうね……」納得はしていない。でも、今の自分があるのはキョウヤのお陰でもあった。
だから、これ以上は何も言えなかった。
「はい、その通りです。では、道場の方は任せました。私は――極楽結社のデータをまとめなければいけませんので」
「分かりました」
頷いて、ユウトは素直に引き下がった。
そのまま部屋から退室。すると、入り口で待っていた、仲間に声を掛けた。「どうだった?」黒い鎧を着込んだのは、ガンケン。ユウトにとっては、今や最も探索者として付き合いが長い相手である。
首を横に振って「キョウヤさんはアサヒなんて眼中にないみたいだ」と、今回の結果を彼に伝えた。ガンケンの表情は着込んだ甲冑によって見えないものの、彼の考えていることは大抵分かった。
二人の付き合いはそれほどに長い。
「俺も同じ考えだ。今更、アサヒに何ができる?」
「……まぁ、そうだな」
ユウトの危惧について、長年の仲間であるガンケンさえも理解していなかった。だからこそ、ユウトはそれ以上言葉を重ねることはなかった。「セレナの動向は?」もっと分かりやすい共通の敵を確認した。
ガンケンはそれなら――と、誰かに連絡を入れる。ぴこん、という電子音が響けば。
「アサヒのチームに入った……だと?」
と、ガンケンの言葉がユウトには聞き捨てならなかった。「何だと?」葬ったはずの自分のPTメンバーが、突然墓から出てきたと思ったら――徒党を組み始める。
偶然の一言で片付けるには余りにもできすぎている。
「――アサヒはともかく、サナカは見逃せない。ガンケン、俺は少し空ける。道場は少し任してもいいか?」
「ああ、任された」
腰にくくりつけた仮面を装着して、ユウトは姿を消す。
残ったガンケンの表情は――少し複雑なものだった。