空気は冷たかった。
突如現れたチヒロは、魔労社の三人に“止まれ”と命じた。「誰に向かって命令しているんですの?」手はユウリへと向けたまま、アスミはチヒロへ視線を移す。
槍の切っ先を天井へと向けたチヒロは酷く落ち着いた様子だった。
「私は雇用主に等しいはずよ?」
「――それもそうですわね。なので、ご命令通りに止まって差し上げましたけど?」
淡々と答えるチヒロに対して、アスミが素っ気なく返事をする。沈黙が徐々に重くなってきた頃合いで――「チーちゃん!」ユウリが口を開いた。続けざまに、極楽結社と縁を切るように告げるのだが。
「勘違いしてる? アンタを助けたわけじゃないわよ。もう一度、アンタと戦いたかった。だって、私がアンタに負けるなんてあり得ないじゃない」
風切り音と共に、槍の切っ先をユウリへと差し向ける。
二人の間にある並々ならぬ因縁を感じ取ったアスミは、ため息と共に一歩二歩後退。ユウリをチヒロに譲る形となった。
「ハードボイルドな私は、空気も読めるんですの。仕方ないから、ここはお譲りしましょう」
「私の電脳率は95%! 前よりもさらに15%も引き上げたのよ。ユウリ、アンタと違って私は強くなるためなら命だって惜しくない!」
「チーちゃん……」
幼なじみの言葉に、ユウリはただその名を呼ぶことしかできなかった。
膠着状態の隙を突いたサナカが、ユウリの隣に立つ。「これは――ちょっと不味いね」いつも爽やかな笑顔を浮かべていたサナカの表情が、珍しく険しかった。
電脳率――探索者は上限50%の規制が設けられている。
その理由は単純明快、電脳率を引き上げればパフォーマンスは向上する。反面、そのフィードバックも大きくなってしまう。――95%という数値は、命を落とすには十分すぎるほど。
「チヒロちゃんが動けなくなるようなダメージを与えちゃうと――彼女は死んじゃうかもしれない。でも、それくらいのダメージじゃないと彼女は止まってくれない」
「じゃ、じゃあどうすれば――!」
「私には……どうにも」
「そ、そんな」
手立てはない。
Sランクのサナカが匙を投げた事態に、しがない探索者に過ぎないユウリが答えを出せるわけもなかった。ユウリはうなだれ、肩を落とすしかなかった。「でも」しかし、サナカは続けた。
「師匠なら――! この状況をどうにかできるかもしれない!」
「――! は、はい! 確かにアサヒさんなら!」
その言葉通り、サナカは師匠であるアサヒに連絡。
数度のコールの後に、アサヒへと繋がった「師匠、助けてください! ピンチです!」それだけ伝える。
そして、さらに詳細を説明しようとしたところで――「あ、また――!」悪寒がサナカの背筋を撫ぜた。それに従って、彼女は鎌を振り上げる。
本来、虚空を切り裂くべきそれは――凄まじい速度で迫った何かに当たって甲高い金属音を響かせた。サナカが視線をそれに合わせれば、弾かれた反動によって宙を回転する黒い何かがあった。
それは着地して、ゆっくりと立ち上がる。
黒い仮面、黒い軍帽、黒い軍服、黒い軍靴、黒いマント。
何もかもが黒に染まったそれ。
片手剣の剣先を、サナカへと向ける。
「連絡は――途絶えちゃった。でも」
アサヒと連絡が取れた時間は僅か。でも、サナカにとってはそれで十分だった。自分が助けを求めれば、アサヒならどんなことがあっても来てくれるはず――そんな信頼がサナカにはあった。
アサヒが師匠だから、それはもちろん理由にある。けれど、今までこうして一緒に過ごしてきた感覚から分かっていた。師匠は師匠としてだけでなく人として好ましい人物だと。だから、目の前のことに集中できる。
――自分がやるべきことに。それはつまり、目の前にいる、この“仮面”と戦うことだった。頭の中に浮かんだ最適解をこなすために、サナカは両足に力を込めた。次の瞬間、地面を蹴り加速。
一歩、踏み込むと共に鎌の刀身を地面に差し込む。
――二歩、間合いを十分に詰めれば鎌を握る両腕に力を込める。
――――三歩、鎌を地面から振り抜けば。
地面が絨毯のように捲り上げられ、そり立つ土壁が“仮面”へと放たれた。サナカの道筋を示すように、地面には一直線の鎌跡が残る。
「……」
対して、仮面は軽く剣を横へ振る。
土壁が裂け、その遠く背後にあった木々が剣圧によって薙がれた。しかし、サナカにとって土壁は目隠しでしかなく――その動作の隙を突くように、側面を取ったサナカは鎌を振り、横一閃。
すかさず、仮面は剣にてそれを受ける。
ジリリ、僅かに後退こそすれど鍔迫り合いに持ち込んだ。
「おかしいな――このまま彼方まで吹き飛ばすつもりで弾いたのに」
「――防がれることは織り込み済みか」
「もちろん、君の実力なら当たることはないと思ってたから」
明らかに機械か何かで声を変えているような、不気味な声が仮面から発せられた。
サナカの言葉に、そうか――とだけ受けた仮面はそのまま剣を弾いて鍔迫り合いを解除。衝撃により、後退するサナカ目掛けて裾から取り出した短剣を投擲。身体を反らして紙一重で避け――。
短剣が彼女の頬を掠めていこうとしたところで、短剣と仮面の位置が切り替わる。「っ!」不意を突かれたサナカの眉が上がった、回避は間に合うわけもなく仮面の横薙ぎがサナカに命中――そのまま、彼女は吹っ飛び霧の中に消えて行った。
吹き飛ばしただけでは満足せず、仮面もサナカを追うように続く。
――この間、僅か十数秒。
残されたユウリを含めた五人は、ただその様を黙って眺めるしかなかった。
「どうする社長? あっちを追いかけるか?」
「Sランクってあんなに強いんですの!? というか、あの黒仮面――誰なんですの!?」
「味方よ、味方。その程度で狼狽えないで貰えるかしら、鬱陶しい」
放たれる辛辣な言葉に、アスミは青筋を浮かべながら猛抗議するがナルカとジェの二人に窘められる。当の本人はどこ吹く風。先ほどの嵐も気にせず、むしろ邪魔者が消えて清々した、くらいの心持ちだった。
「じゃあ、もう一度戦おうか」
「……私は戦いたくないけど、チーちゃんは言っても聞かないもんね」
もちろん、ユウリはまともに戦うつもりはなかった。
ただ――アサヒが来るまでの時間稼ぎをするつもりだ。アサヒなら、きっとこの状況もどうにかしてくれるという信頼があったのだ。「ふん」チヒロは、そんなユウリの心を見透かしたように笑った。
「もしかして、本当にあの詐欺師が状況を好転させるとでも?」
「……先生は詐欺師じゃないよ」
「アンタまでそういうの。そう、もう良いわ」
ぐるりと槍を回して、チヒロは冷たく言い放った。
ユウリは剣と盾を握る拳に力を込めて彼女を見据えた。
彼女にとっての負けられない第二回戦が、今始まりを告げた。