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第60話 大広間

 先に走る裕介の背中を見ながら、時生は床を蹴る。

 そう体力がある方ではないから、全力で進むとすぐに体が熱を帯びた。息が切れたし、心臓が煩いほどに啼いていたが、届けるという一心で走った。


 そして階段を降りきると、既にエントランスに通じる扉の前には、きちんとした人間の姿はなく、逃げ惑う人々と喰う人々が、会場中で乱闘したり、逃げ惑ったりと、混乱の様相を呈していた。相樂や黎千は、壁に掛けられていた飾りの西洋の武器を手にして戦っている。容赦なく、人間であった者達があやかしの様相を呈すれば、斬り捨てている。


 牛鬼は堂々と、仮面の結櫻を連れて、茶色い紋付き姿のまま、扉に向かって歩いていく。扉の脇には、涼しい顔の青波が立っている。右手で銃把を握り、銃口に息を吹きかけているのが見えた。偲はそのそばで、手刀で相手を気絶させようと動いている。


 首元まで黒い茨の模様が浮かんでいる者もいて、既に腐食が始まっている者もいるのか、血と異臭が会場には溢れている。


 青波を一瞥した牛鬼は、笑っているだけだ。

 青波も動かない。

 まさか、と、一瞬だけ時生は考える。同じ指輪をしている結櫻と青波は、通じていたのだろうか? 信じろと偲は言ったけれど、と、不安になる。だがすぐに時生は、頭を振る。そして扉のすぐそばにいる偲に向かって、混乱している人々の合間をすり抜けて走る。


「結櫻」


 その時、牛鬼の声が聞こえた。立ち止まった牛鬼が振り返ると、結櫻が仮面を手に取り、悠然と笑ったところだった。


「この扉、ドアノブからなにやら、気配を感じるぞ?」

「そうですか?」

「――心当たりは?」

「さぁ?」


 結櫻の声に、首を傾げた牛鬼が、チラリと青波を見てから、ドアノブに手をかけた。

 すると、部屋で灰野が軍刀に触れた時同様、その場に稲妻が走る。

 だが動じた様子はなく、衝撃を受けた気配もなく、ただ無表情になった牛鬼は、手を引いた。


「結櫻?」

「はい?」

「俺は確かにお前に任せたと思うが? 脱出ルートの手配を」

「ええ、きちんと――閉ざし終えてます」


 結櫻の表情は変わらなかったが、彼は、下ろしていた手の指を鳴らす。

 すると右手に、クナイのような黒い暗器が出現した。

 ほぼ同時に、青波が銃口を牛鬼のこめかみに向ける。牛鬼の背中には、結櫻が四角錐の形をしたクナイの尖端を向けている。


「結界師の青波を甘く見たな。とっくにこの新鹿鳴館中には、俺の結界がある」

「室町から索敵に長けた結櫻も甘く見られていたようで。忍びとは、主人にしか仕えないものなんですよ。僕の主は、この国の平和だ。そのために逝った父と祖父の無念、果たさせてもらいますよ、牛鬼様」


 二人の声が響くのを、目を丸くして時生は聞いていた。

 振り返った偲が、険しい顔をしている。それを見た時、時生は己の役目を思い出す。


「偲様!」


 声をかけると、偲が時生に気づいて虚を突かれた顔をした。


「時生……」

「これを!」


 そして時生の持つ軍刀を目にした瞬間、唇に僅かに笑みを浮かべた。

 そんな二人の間に、あやかしと化した者が波を築く。


「行け」


 すると懐から守り刀を取り出した裕介が、震える手でその柄を握り、それから力を込めて、襲い来るものの首に、それを打ち付けるように振り下ろした。時生は頷き、そこに生まれた空間に踏み込み、通じた宙に向かって、その軍刀を投げる。


 偲がしっかりとその柄を握って受け止め、鞘から軍刀を引き抜いた。

 光り輝く刀身が現れた時、偲が鋭い眼差しで後ろへと振り返る。そこには不機嫌そうな顔で、バサリと金色の扇子を開いたところの牛鬼の姿があった。その周囲を三方向から、結櫻と青波、そして偲が囲む。


 その光景に肩から力が抜けそうになった時生は、呻くような声を耳にした。

 見れば真正面に、口を開けているあやかしと化した者が迫っていた。

 赤い舌、黄色い犬歯と犬歯の間に見える唾液。硬直した時生は、そちらを凝視したまま凍りつき、身動きが出来ない。


 大きく開いた口が、自分の首元に迫ってくる。


 ああ、もうダメだ。けれど、無事に刀は渡すことが出来た。だから、みんながきっと牛鬼を倒してくれる。ギュッと目を閉じながら、恐怖と同じくらい、信じる気持ちが浮かんできた。迫り来る気配に、時生は己が噛まれると確信した。




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