「んんん。灰野が帰ってこないな」
青波が渋い顔をしている。偲と山辺、黎千と結櫻は先に深珠区へと戻っている。
慰霊祭が終わり、広場に戻った面々は、それぞれ周囲を見渡していた。
「俺がさっき資料庫に届け物を頼んだっきりだな。慰霊祭の最中もいなかったしな」
青波はそう言って腕を組むと、怪訝そうに周囲を見てから、白い柱の時計を見上げた。
相樂がその横に立つ。
「探した方が良い。道に迷っているのかもしれん」
「ああ、そうだな。手分けして探すとしますか」
青波が頷き、一同もまた首を縦に振った。時生も道には詳しくないが、会館の中で迷子になるとも思えないので、捜索に加わる。高級そうな調度品が並んでいる、よく磨かれた三階の廊下を時生は進んでいった。そして角を曲がった時の事だった。
「っく」
壁に叩きつけられる音と、呻き声が聞こえた。
目を疑って、時生は立ち止まる。そこには殴り飛ばされた灰野がいて、壁に背中をしたたかに打ち付けたところだった。座り込んでいる灰野の顔の横で、誰かが黒い軍靴を壁に打ち付けている。膝を折り曲げている軍人が、二度三度と灰野の顔の脇の壁を踏むように蹴りつける。
「お前みたいなあやかし対策部隊の面汚しは、さっさと出て行け」
せせら笑うような誰かの声がし、屈んだその軍人が灰野の首元を左手で捻じり上げた。
そして右の拳を握り、振り上げている。
時生は思わず走って、その腕を引っ張った。
「何をしてるんですか!! 止めて下さい!!」
「――あ? なんだお前は」
するとぎろりと時生を睨んだ短髪の青年は、背後にいる仲間らしき集団を一瞥してから、改めて時生を見て、腕を振り払った。
「こんな奴を庇うのか?」
「なにがあったのかは知りませんが、こんなの止めてください!」
「知らない? だったら口出しするな。お前も殴られたいらしいな?」
男は姿勢を正すと、今度は時生に向かって、にたりと笑い拳を振り上げた。
「っ」
思わず時生は目を見開き立ちすくむ。殴られると思っただけで、過去に繰り返された暴力が脳裏を過り、体が動かなくなった。男の腕が振り下ろされる。それが妙に緩慢に時生には見えた。
「……止めろ、無関係だ」
「!」
するとそれまで黙って殴られていた灰野が、素早く時生と青年の間に割って入り、狼狽えている相手の手首をきつく握った。
「やろうっていうのか?」
「……」
「お前ら、こいつらはよっぽど殴られたいらしい。やっちまえ」
男の声に、周囲にいた軍人連中が二人を囲む。そしてそれぞれが殴りかかろうとした時だった。
「どういう状況だ? 何をやっている!?」
よく通る声が響いた。それが相樂のものだと気づき、反射的に振り返った時生は気が抜けて、涙ぐんだ。
「この人達が、灰野さんを殴ってたんです!」
「なんだと? 事実か? 灰野?」
歩みよってきた相樂に対し、灰野が俯いた。周囲にいた連中は、逆に勝ち誇ったように笑う。
「これはこれは相樂隊長。そんな奴を押しつけられた深珠駐屯地の可哀想な隊長様だ。当然俺達は何も悪くないとご存じですよね? 殴っても殴っても殴り足りない」
それを聞いた相樂は、無表情になり、逞しい腕を組んだ。
「事実確認をするが、貴殿は灰野大尉を殴ったのか?」
「ああ、それが?」
「――俺の部下に何をしてくれてんだよ!!」
直後、相樂が派手に正面の青年軍人の顔を拳で殴った。吹っ飛んだ青年は、呆気にとられたように床に転がると、頬を押さえた。
「おいおい、相樂さん、何してるんだよ!?」
そこへ青波の声がかかった。事態が飲み込めない時生は振り返る。
「灰野さんを殴ってた人を相樂隊長が殴ったんです」
時生が事情を説明すると、透き通るような目をした青波は、冷静な顔で頷いた。
そして、笑顔になる。
「なるほど。俺の隊の者に手を出すとは良い度胸だな、お前ら。全員無事で帰れると思うな!!」
こうして青波もまた、拳を振り上げる。すると我に返ったように、周囲にいた軍人達も臨戦態勢になり、その場で殴り合いの大乱闘が始まった。呆気にとられつつ時生は、自分を庇ってくれた灰野を見る。マスクが取れていて、端正な口の端から血が零れている。それを目視し、慌ててポケットからハンカチを取り出して差し出す。
その騒動はすぐに決着した。
灰野を取り囲んでいた人々は、相樂と青波により、その場に伸されたからである。
時生が呆然としていたその時、不意に声がかかった。
「なんの騒ぎだね?」
見るとそこには、先程壇上にいた礼瀬中将が立っていた。相樂と青波が姿勢を正す。
時生は灰野を支えつつ、そちらを見た。
「ご無沙汰致しております、礼瀬中将」
「相樂。挨拶は不要だ。なにがあったかと聞いているんだが……」
「私の部下が愚弄されたもので、いてもたってもいられず」
相樂の声に、礼瀬が周囲を見渡してから、最後に灰野を見た。そして頷いてから、這いつくばっている軍人達へと改めて顔を向ける。
「相樂、青波。遠目に見ていたが、血気盛んなところは、隊長と副隊長になったのだから、そろそろ抑えよ。そう何度も申しているだろう……私とて庇っても庇いきれん。暴力を、私はよしとはしないぞ」
それを聞いた、床にいる軍人達は、少しだけ希望がわいてきたような顔をした。
「そうですよ! こんなのは軍法違反だ!」
「何を言っておる? 先に手を出したのは、そちらなのだろう? まったく」
するとぎろりと礼瀬中将が睨んだ。その眼光に、その場にいた全員が、時生も含めて凍りついた。
「相樂。こういう輩は死んだ方がマシな目に遭わせよと、何度も教えただろうに」
そう言うと礼瀬中将は屈み、灰野を殴っていた軍人と視線を合わせてニコリと笑った。
その瞳だけは、非常に冷徹な色をしていた。
「
綿貫と呼ばれた、先程の慰霊祭で司会をしていた青年が、大きく頷いた。
「あとはこちらで処理をする。相樂、問題を起こさず帰るように」
「はい」
相樂が礼瀬中将に敬礼した。それに頷いてから、礼瀬中将が歩いて行く。
青波はそれから灰野と時生に振り返った。
「まぁなんだ? 災難だったな。怪我は?」
「……ありません」
「僕は灰野さんが庇ってくれたので」
二人の言葉に頷いた青波は、それから階段へと視線を向ける。
「じゃ、とりあえず帰るとするか」
青波が歩き出し、相樂もそちらを追いかけるようにして隣に並んだ。時生も呼吸を落ち着け、その後ろに続く。するとゆっくりとした歩幅で隣に並んだ灰野がぽつりと言った。
「時生」
「?」
視線を向けた時生は、灰野と目が合う。
「……悪かったな、巻き込んで」
「ううん、僕は平気です」
「……助けてくれて、その……有難う」
ごく小さい声で、相変わらず感情の見えない平坦な声だったが、確かに感謝の気持ちが色濃く滲む灰野の言葉に、時生は微笑した。
自分は過去、殴られても誰も助けてはくれなかった。
だから自分は、殴られている人がいたら、助けたい。
それが親しい相手ならば、なおさらだ。
「ううん。僕の方こそ、庇ってくれてありがとうございます」
こうして二人も、相樂と青波の後に続いて階段を降り、そうして帝都中央あやかし対策会館を後にしたのだった。