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第12話 偲の問い

 数日後、この日は吐く息が白く染まるほど寒い日だった。

 珍しくお昼寝の付き添いを真奈美が代わると申し出て、時生は小春と二人、火鉢のそばにいた。小春はどうやら朝から、ぞうきんを縫っていたらしい。


「あの、よかったら手伝いましょうか?」

「おや、時生さんは縫い物まで出来るのかい?」


 すると驚いた顔をした小春が、手にしている布と裁縫箱を見比べてから、口元に笑みを浮かべた。


「では、一枚お願いしようかねぇ」

「はい!」


 大きく頷き、時生は針と糸を手に取り、それから布を持った。

 こうして二人で縫い物を始めて――二時間。


「できました」

「本当に丁寧で上手だねぇ。時生さんは器用だ器用だ。私よりもずっと器用かもしれないねぇ」


 小春はそう述べるとニコニコしながら、急須を見る。


「もう一枚、よかったら――」

「いんや。時生さんは、きちんと休むことを覚えないと駄目だねぇ。ちょっと働き過ぎだと私なんかは思うほどだよ」


 苦笑するように小春がそう述べた。


「俺も同感だ」


 すると背後から声がかかった。振り返ると、そこには偲が立っていた。


「お帰りなさいませ、偲坊っちゃん」

「坊っちゃんはやめてくれないか?」

「おやおや、失礼致しました。旦那様、お帰りなさいませ。さぁて私は一服してきますので、旦那様からきちんと時生さんに休むように伝えて下さいますね?」

「ああ、分かっている」


 偲が頷いたのを見ると、裁縫道具を片付けて、最後に時生に優しい笑顔を向けてから、小春が部屋を出ていった。丁度火鉢が、バチンっと音を立てた直後、室内に入ってきた偲が、先程まで小春が座っていた場所に腰を下ろす。


「あ、あの……」

「ん?」

「……もしかして、僕はご迷惑を……」


 二人のやりとりから、出しゃばったまねをしてしまったのだろうかと考えて、時生は顔を曇らせる。


「いいや。働いてくれて、本当に助かる。これは本音だ。ただ、そうだな、なんと伝えればいいのか」


 偲は顎に手を添えてから、思案するように瞳を揺らす。

 それからまだ時生が手に持っているぞうきんと針を一瞥した。


「縫い物まで出来るのか?」

「……はい」

「真奈美からは皿洗いも、小春からは野菜の皮むきも、そうした主に女性の使用人が担うことの多い雑事を、時生は巧みにこなすと聞いている。実際、そのぞうきん……そこにおいてある小春のものより巧いな……」


 最初は淡々としていた偲の声だったが、ぞうきんを見比べたときだけ、非常に複雑そうな色が混じった。しかしすぐに気を取り直したように続ける。


「渉によれば、荷物の運び入れなど、男でもきつい仕事も、泣き言一つ口にせずに手伝うと聞いている」

「……」

「まるで、使用人として働いていた経験があるかのように思えるほどだと、皆が言う。だが、時生は高圓寺家のご子息だろう? 状況が掴めない。そこで、差し支えなければで構わないのだが、高圓寺家での生活について、少し聞いてもいいか? 帰るところが無いという話の頃から、気になってはいたんだ。言いたくないのならばそれでも構わないが」


 淡々としている声音だったが、心配してくれているのは明らかだと、時生には伝わった。だが、『高圓寺』という名を耳にした瞬間、嫌な記憶が脳裏に浮かび、思わずきつく目を閉じて俯く。両手で耳も塞いでしまいたいほどだった。だが手が塞がっているのでそれは出来なくて、うっすらと目を開けてから、布を畳んで器用に針をそこに刺してまとめ糸を置く。それからゆっくりと顔を上げて、偲を見る。


 高圓寺家のことで、まず思い出されるのは、継母である松子からの折檻だ。

 幾度も幾度も殴られ、痛みに耐えた記憶。

 それが過って、思わず時生は震える両手で口を覆った。


「時生?」

「……あ、いえ……なんでもありません。僕に答えられることでしたら」

「ああ。そうだな、では――高圓寺隆治卿についてだ。時生から見ると、どのような人物だった?」

「その……父とは、ほとんど顔を合わせたことがなくて……」


 なにせ母の葵が病床についてからも、一度も見舞いにすら来なかった。

 時生がたまにすれ違ったのは、地下の倉に味噌や酒を取りに行く時、二手に分かれた階段の、当主しか立ち入ってはならないとされる右側の階段から、父がのぼってきた時くらいのものだ。大抵そういう時の父・隆治は、恍惚とした表情をしていた。


『これで蛇神様もお喜びになる』


 いつもそんな事を口にしていた。

 なにやら隆治は、蛇神を祀っているらしかった。これは使用人達の間でも噂になっていたから間違いないだろう。


「そうか。では、義理の兄弟――兄だったか? 弟だったか?」

「異母兄です」

「そうか。その彼とは、どのような関係だった?」

「ええと……その、宿題を一緒にすることが多かったです」


 押しつけられていたとは言いにくくて、時生はそう取り繕った。


「なるほど」


 小さく頷いた偲は、それから小首を傾げて腕を組んだ。


「では、高圓寺家の食事の時間は?」

「え?」

「大抵、帝都の人間は、家ごとに食事の時間を決めているだろう?」


 それを聞いて、時生はさらに俯いた。時生が料理を出していた時刻ならば、分かる。時生以外の、高圓寺家の者が食べていた時間帯だ。


「朝は八時です」

「八時か。ところで、時生。好きな食べ物は?」

「え?」

「ああ、これは時生のことが知りたいがための質問だ」


 時生は困惑して、おろおろと瞳を揺らす。高圓寺家では、野菜の皮などばかりを食べてきたので、この礼瀬家へ来てから人生で初めて食した料理の数々が、残らずどれも好きになってしまったからだ。


「――では、嫌いな食べ物は?」


 続けて偲が尋ねた。それを耳にした時、思わず時生は両腕で体を抱く。

 背筋に震えが走る。


 嘗て、風邪を引いた時に、お粥だと言われて小さな土鍋が珍しく運ばれてきたことがあった。弱っていたため、素直に厚意だと考え、蓋を開けてみれば、そのお粥の上には、鼠の遺骸がのっていた。濡れた毛や尻尾がお粥から飛び出ているのを見た時、思わず泣き叫んだところ、粥を運ぶ使用人と共に訪れた松子に、煩いと叩かれたことを思い出す。


 瞬時に青褪め、震え始めた時生の様子を見て、偲が小さく息を吐く。


「言わなくていい。それでは、好きな楽器は?」


 その言葉で、漸く時生は我に返った。


「楽器……ですか?」

「ああ。高位華族の高圓寺家ならば、ご子息には習い事をさせると思ってな」

「……その、僕は妾腹の子なので……そういったものは」

「そうか。嫡男とは違う扱いを受けていたと言うことか?」

「……はい」

「家事はどこで覚えたんだ?」

「……」

「好きならばいいのだが、無理にやる必要は無い」


 冷静な偲の声を聞きながら、前に同じことを澪にも言われたと時生は思い出した。


「俺が話を聞いたかぎり、少し働き過ぎだ。小春も同じ意見だったようだが。だからな、時生。これからは休日を設けよう」

「え?」

「俺は三日に一度、その次は四日に一度、そして月に一度は二日連続で休みだ。それにあわせて休んでくれ。その日は、俺が澪を見られるからな」

「で、でも……」

「俺もまた、澪の先生なんだ。父として、色々教えてやりたいんだ」


 そう言って偲が、柔和な笑みを浮かべた。その表情に、時生の気が抜ける。


「はい」


 張り詰めていた緊張の糸が解れた心地になった。気づくと己がびっしりと汗をかいていたと気がつく。


 偲の考えを聞き、こちらを慮ってくれた事を、ありがたいと時生はこの日感じた。





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