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第11話 酒と金平糖

 始まった穏やかな日々、これまでの人生がまるで嘘だったかのように、溢れるほどの人の優しさに触れ、時生はたまに、今夢を視ているのではないかと不安になる。だが朝を迎える度に、朝食の席でも、その後の澪との勉強時においても、午後のちょっとした休憩の安らぎの場でも、皆は時生を笑顔で迎えてくれる。


 それが嬉しくてたまらない。

 満腹でいられる事も、暴力を振るわれない事も、嬉しい事は数多くあるけれど、自分を見て他者が温かい笑顔を浮かべてくれるのが、なによりも時生にとっては嬉しい事だった。


「時生さん! ちょっと荷物運び、手伝ってくれー!」


 真奈美と緑茶を飲んでいると、バタバタと渉が走ってきて、半分ほど開いていた戸をガラガラと開け放った。


「分かりました!」

「頼んだ! 行こう!」


 渉が踵を返して駆け戻っていく。


「ちょっと行ってきます」

「時生さん……元々は渉がやる仕事なんだから、無理なくですからね?」


 真奈美が苦笑している。それに微笑を返してから、時生は和室を出て、勝手口へと向かった。するとそこには、鴻大の姿があった。


「こんにちは」

「ああ、こんにちは。今、渉が外で荷の数を確認してくれていて。俺は先に、この酒瓶を運んできたんだ」


 そう言うと、ケースに入った沢山の瓶の酒を、どんっと音を立てて鴻大が床に置いた。確かにこれは重そうだと感じつつ、時生は不思議に思う。夕食の席でも嗜む程度で、このように多くを偲は飲まない。だが鴻大が来る場合、三度に一度は、この量の酒を持ってくる。一体酒は、どこへ消えていくのだろうかと、時生は首を捻る。


 そうしていたら、鴻大が腰元に巻いている布に描かれた、白い波線がまた視界に入った。


「あの」

「ほい?」

「その白い波線、一体何を描いているんですか?」


 時生の言葉に虚を突かれた顔をしてから、二度大きく瞬きをした鴻大が、ニッと唇の両端を持ち上げる。その瞳は、とても楽しそうだ。


「これはなぁ、護り神なんだ」

「護り神?」

「ああ」


 鴻大が頷いた時、渉が戻ってきた。


「鴻大さん、数はばっちりです。下ろすのをお願いします! 時生さんは、ここから運ぶのを頼んだ!」


 こうして一番年少である十五歳の渉が仕切る中、荷を下ろしたり運んだり整理したりという作業が始まった。もうじき冬だというのに、気づけば体が火照っていて、時生は汗をかいていた。


「ありがとうございましたー」


 最後の荷を下ろして、鴻大が帰っていく。

 それを見送り、二人はそれぞれ左右を持って、最後の酒瓶のケースを運んだ。これが正直一番重い。一人でいつも運んでいる鴻大を尊敬してしまう瞬間だ。


「鴻大さんって力持ちだよね」


 運び終えて時生が呟くと、苦笑しながら渉が大きく頷いた。


「そうだよなぁ。よく持てるよな。ちょっと前までは、鴻大屋は爺さんがやってたんだけど、ちょっと前に今の四代目の鴻大さんに代わったんだよ。だから前よりは、荷を運んでもらうのが気楽」

「そうなんだ」

「うん。最近は三代目の爺さんも見ないけど、元気かなぁ。鴻大屋さんは礼瀬家と、古い付き合いらしくて、必ずそこから仕入れることに決まってるって、小春さんに聞いてる。ただあんまりよぼよぼの爺さんが運んでくると、俺が取りに行こうか悩んでた」

「なるほど」


 そんなやりとりをしながら、二人はその後、手を洗ってから、一度真奈美がいる控えの和室へと戻った。それから少しして、時生は澪が起きる時間だからと、子供部屋へと足を運ぶべく、部屋を出た。


「ごめん下さいませ!」


 玄関から声が響いてきたのはその時だった。玄関の一番そばにいるのは自分だと即座に気づいて、時生はそちらへ向かう。すると回覧板を手にした、黒く長い髪をした女学生が一人立っていた。制服を着ている。


「回覧板です」

「はい、ありがとうございます」

「そ、それと……」


 回覧板を時生が受け取ると、恥ずかしそうに瞳を揺らしてから、ちらっと女学生が時生を見た。彼女はそれから巾着袋を持ち上げて、中から金平糖の袋を取りだした。


「こ、これ……偲様に、よ、よかったら……渡して頂きたくて!」

「はい? ええと、これを渡せばいいんですね?」

「は、はい!」

「失礼ですが、お名前は? 僕はここに来てまだ日が浅いもので……」

「隣の家の弥子やこと言います。ええと、確かにお見かけしないというか……貴方は?」

「僕は、高圓寺時生と申します」


 慌てて時生は名乗り返す。すると弥子が微笑した。


「宜しくお願いします。それに金平糖も絶対に渡して下さいね! 偲様のことを想って、買ってきたんですから! あっ、そ、その……変な意味ではなくて……お、奥様がおられなくなったと聞いて、だ、だから、ええと……」


 頬を真っ赤に染めている弥子を見て、きっと偲に恋をしているのだろうなと、時生は察した。なのでそっと手に持った金平糖を見てから頷く。


「必ずお渡しします」

「ありがとうございます!」

「でも――受け取ってもらえるかどうかは、保証できないです。それは、偲様が決める事だと思うので……僕にはちょっと分からないというか……」

「あ……い、いいの! それで十分です! ありがとう! また来ます!」


 勢いよくそう述べると、脱兎のごとし勢いで、弥子は帰っていった。

 それを見送ってから、時生は一度己の部屋に金平糖をしまいに行く事にする。

 階段を上りながら考える。


「偲様がモテるというのは、なんとなく分かるけど……確か、奥様が出て行ったとかって……?」


 果たしてその『奥様』は、今は何処で何をしているのだろう。

 まだまだ礼瀬家の事は、知らないことだらけだ。

 だが少しずつ知っていけるのが、とても楽しい。


 そう思いながら、時生は自室へと戻った。




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