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第9話 初日の終幕


 いただきます、と、手を合わせてすぐ、偲が澪を見る。


「今日は何を学んだんだ?」

「えっと、干支を復習した! ほかは俺が教えてやったんだ!」

「そうなのか?」


 すると偲が時生に水を向けた。事実なので、微笑して時生は頷く。


「そうです」

「そうか。知識のほどは、分かってもらえたか?」


 時生の意図を正確に汲み取ってくれた偲の声に、時生は胸がほんのりと温かくなった気がした。


「はい。算学が少し苦手みたいですね」

「うっ」


 澪が呻いてから、顔を背けてフォークをくわえた。


「澪様、危ないからくわえちゃダメだよ」

「ん」


 時生の声に、素直に澪が口から離す。それを見守っていた偲が、喉で笑った。


「その調子で頼んだぞ。なにせ俺の言うことしか、これまで聞かなかったものでな。これから澪のことは時生に任せるとしよう」


 苦笑した偲の声に、驚いて時生は小さく息を呑む。


「そうなんですか? こんなに気を遣うお子さんなのに……」

「俺もそう思うのだが、何分気難しくてな。それにこの子が優しい子だというと、親馬鹿だと他の者は俺を笑う。時生だけだ、分かってくれたのは」


 偲の苦笑交じりの嘆くような声に、時生は曖昧に笑い返す。


「おれはもう大人だ!」


 そこへ澪が声を挟む。そちらを見れば、切ってあるエビフライを、フォークで一つ刺していた。唇を尖らせている澪は、本当に愛らしい。


「澪は時生に何を教えたんだ?」

「んんっと、四将のおうちの名前が一個目だ。あと一個、お父様があやかし対策部隊の副隊長だって話もしたぞ!」

「そうだったのか。それは説明の手間が省けてなによりだ」


 ゆっくりと二度頷いた偲は、優雅にナイフとフォークでエビフライを切り分けながら、続いて時生へと視線を向ける。


「俺は、澪の言う通り、改めて言うがあやかし対策部隊の副隊長をしている」

「はい」


 時生が真剣な顔で頷く。


「そのため、なにかとあやかしに狙われる場合もある。勿論この邸宅には結界を構築しているから、めったなことでは害は無い。だが中には、見鬼の才など不要でも目視可能なほどに強い力を持つあやかしが、狙ってくる場合もある。だから時生も、それだけは忘れずに、気を引き締めておいて欲しい」


 静かに告げる偲の声に、時生は大きく頷く。


「分かりました」

「よかった。伝えておかなければと思っていたところだったものだからな。また、それとは逆に友好的であったり中立的なあやかしもまた、この世には存在する。そういった連中は、気まぐれに遊びに来る場合もある。その……なんだか俺は、一方で恐れられ、一方で懐かれるたちだと言われていてな。敵にはこれでもかというほど、自分で言うのもなんだが憎まれるのだが、懐いてくるあやかしも多くてな。たまに困ってしまうほどだ」


 語るにつれ、偲の目に浮かぶ感情が、どこか呆れたような色に変わっていった。

 どんなあやかしを思い浮かべているのだろうかと、時生は首を捻る。


 見鬼の才も先見の才も持たない無能として罵られて育ったが、別段それらが欲しいだとか、在ればよかったと思った事もない。だが今は、偲や澪と同じものを視られたならば、きっと楽しかっただろうなと考えてしまう。しかし、無い物ねだりをしても、意味はない。軽くかぶりを振ってから、時生は改めて偲を見据える。


「どんなあやかしがいるんですか?」


 時生が尋ねると、銀器を置いて、偲がワイングラスに手を伸ばす。


「最近は、異国から来たあやかしが多い。たとえば今日などは、英国から来た吸血鬼というあやかしと一悶着あった」

「吸血鬼……? ですか? それは、どんなあやかしなんです?」

「人の生き血を吸うんだ。日本の牙で肩口に噛みつく。元々は我々と同じ人間で、別の吸血鬼に噛まれて死んだ後、同じように吸血鬼となって、人間を襲うようになるあやかしだ」

「そ、それって……死人が歩いてまわって、生きてる人間の血を吸うということですか? それも、吸われたら、こっちまで吸血鬼に……?」


 時生は思わず身震いした。すると偲が、頷いてからワインを一口飲み込む。


「そうだ。だが入国時に空港のあやかし対応窓口で、きちんと旅券に記された、『無闇に人間の血を吸わないこと』『輸血パックの所持』『ペットの狼男ライカンスロープの居場所は常に把握しておくこと』といった基礎的な事は確認済みであるから、害はそれほどないんだ」


 偲は当然のように語るが、時生は空港自体を名前しか知らない上、そこにあやかし対策窓口があるというのも初めて知った。


「だが、血の代わりにワインを飲んでいたその吸血鬼は、うっかり満月の夜に狼男を放し飼いにしていたものだから……人の姿で首輪を引きちぎった狼男が、それから犬の姿になって脱走してしまったと言うんだ。満月以外の場合は、ただの犬だからな、狼男は。これがもう捜索が非常に骨の折れる作業だった。今日やっと部隊の者が見つけて、その吸血鬼に連絡をした。まぁ、このような出来事が多い」


 そう言って微苦笑すると、偲がまたワインを飲んだ。


「先程は脅してしまったが、あくまでも『対策』をする部隊であって、『討伐』をする部隊ではないんだ。無論討伐をする事もあるが、あまり多くはない。巷で言われるような、派手な大捕物や、破魔の技倆を用いて討伐するような場面は、日常的にはほとんどない」

「そうなんですね」

「拍子抜けしたか?」

「いえ、そんなことはないです。ペット探しも、大切なお仕事だと思いますし、飼い……狼男が帰ってきたら、吸血鬼さんも喜んだんじゃ?」

「ああ、とても喜んでいたよ。だが、少し疲れてしまった」


 そう言って両頬を持ち上げた偲は、言葉とは裏腹に少しも疲れが見えず、とても明るい表情だ。喜びの方が強いのだろうかと、時生は見守る。すると偲が話を変えた。


「時生、朝よりは少し多く食べられそうか?」

「えっ、あ、はい!」

「そうか。澪の先生になり世話をすることも仕事だが、体調管理も大切な仕事だと心得るように。まずは少し、太れ」

「……はい」


 誰かにこのように体を気遣われたのは、母が没してからは、ここに来るまで本当に一度も無かった。だからこういった些細な一言が、とても嬉しくてたまらない。


 ――なんとか、やっていけそうだ。


 内心で時生は、そう考えていた。

 偲に恩返しもしたいし、与えて貰った仕事もまっとうしたい。


「僕、頑張ります。これから、宜しくお願いします!」


 ぺこりと時生が頭を下げると、偲と澪が顔を見合わせてから、そろって時生へと視線を向けた。


「こちらこそ。宜しく頼む」

「うん、おれもよろしく頼むぞ!」


 こうして、時生の新しい生活が、幕を開けたのだった。




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